大相撲九州場所の最中、日本相撲協会理事長で、元横綱北の湖の北の湖親方が亡くなりました。
未だ62歳の若さです。北の湖理事長は、7月の名古屋場所中に、腎臓を患い休養したとの報道を覚えておりますが、九州場所が行われる福岡市に滞在して、先日は、横綱白鵬の猫騙しに関して意見するなど、元気になられたかと思っていたのでただただ驚きました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
横綱北の湖は、昭和新山の麓北海道壮瞥町出身、中学校1年時に上京して三保ケ関部屋に入門、13歳で初土俵を踏み、史上最年少記録で関取に、また幕内に昇進、21歳2ヶ月での横綱昇進と、横綱在位63場所は、現在も破られていない不滅の記録です。優勝回数24回は歴代5位、『憎らしいほど強い』と言われました。現役時代のしこ名北の湖を、一代親方として認められたのは大鵬親方以来のことで、理事長となった後、相次いで発覚した不祥事により辞任に追い込まれたものの、元大関魁傑の放駒親方定年を受けて、再び理事長に就任、『土俵の充実』を訴え、健康を害しながらも、公務を休むことはなかったのです。
北の湖は、私の青春時代に重なる力士です。少し上の横綱輪島関との対戦は、天才と強さの対決と言われ、生涯対戦成績もほぼ五分、『輪湖時代』とも言われました。本当に強く、『ちぎっては投げ』で、負けて土俵下に落ちた対戦力士には、手を差し伸べることをしない、強面の寡黙の大男でもありました。北の湖が負けることを期待していたファン?は多く、実は私もそのひとりだったのです。
北の湖が負けたときは、館内に座布団が乱れ飛んだものでした。現役引退後北の湖親方は、負けた力士に手を差し伸べるのは失礼との考えだと述べました。あのころ、『敵役』あるいは『憎まれ役』と言う言葉が流行った時代でもありました。『北の湖死す』は、まさに巨星墜つです。
大鵬、北の富士、北の湖、千代の富士、北勝海、大乃国等等名横綱は、北海道出身者が多いですね。両国国技館がある東京は、若貴兄弟こと、三代目若乃花、貴乃花が有名ですが、あまり力士の名を聞きません。
私の子ども時代には、江戸っ子でならした龍虎さんがおられましたが、大相撲は東京のイメージはないですね。もしかしたら、野球、サッカー、ラグビー等の団体競技には、競技する人数が必要ですから、北の大地には、団体競技に進む競技人口が少なくて、自ずから個人競技に進む若者が増えるのかもしれません。あまりに強い北の湖をして、子どものころからヒグマと相撲をしていたなんて、やっかみが聞かれたこともありました。
北の湖もそうですが、いかに個人競技だと言っても、ひとりでは強くなれません。皆中学校を卒業するころ、親元故郷を離れて相撲部屋に入門するのです。ここがいつまでも親元で暮らす都会のアスリートと異なるところです。親方女将さんのもと、上下関係厳しい相撲部屋で生活するのは、もはや『体育会』以上の世界かもしれません。
そんな社会を中学生時代から経験した北の湖親方は、この社会を生きた人たちの『その後』をとても気にかけておられたことは、よく知られております。第2、第3の人生を安心しておくれるよう、いろいろな取り組みを考えていたそうです。
また、北海道はじめ地方巡業のときは、現役時代とは打って変わって子どもたちや地元の人ににこやかに接し、相撲の楽しさを語っていた姿が見られたそうです。このころが、ホッと一息、安らぎを感じられた時間だったでしょうか。未だ少年時代に上京し、厳しい相撲部屋での生活を経験されたがゆえに、人間の優しさを存分に発揮した後半生だったと思っています。
それにしても早すぎました。私が若いころ、あれほど「負けろ!」と願った傑物が居なくなり、力が抜けてしまいました。またひとつ昭和のシンボルが、私にとって、ひとつの時代が終わった思いです。合掌。