七五三と暗証番号

2014年11月15日
テーマ 

11月15日は、七五三です。

 

七五三は、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う行事ですが、もともとは、江戸時代に関東地方で始まった風習が、その後、国内行事となったとされています。

 

数え年で3歳のときは男女とも、5歳のときは袴を履くという趣旨で男子が、7歳のときは、大人と同じ帯を締めるという趣旨で、女子のお祝いをする習わしでしたが、最近では、あまり年齢に拘らないと聞きおよびます。

 

そして、11月は収穫の月。

15日は、旧暦で「鬼が出ない日」にあたり、氏神様に感謝を込めて、満月の日に、子どもの成長をお願いをするため、神社に詣でるのです。

 

この時期、あちらこちらの神社で、千歳飴を持って、紋付袴着物に帯を纏った子どもたちを見かけます。

 

ところで、七五三の意味はわかりやすいです。まさしく文字通りですから。

 

しかし、世の中には、書かれた数字を読むと、「!?」となるケースがありますね。

 

たとえば、歴史の年号はどうでしょう。

 

「794(鳴くよ)うぐいす平安京」から始まり、

 「仏教伝来は、538(ゴミ屋)」

「頼朝は、1192(いい国)作ろう鎌倉幕府」

「秀吉の天下統一は、1590(イチゴくれ!)」等々です。

 

数字の並べ方では、その発音が、あまり歓迎されない場合も出てまいります。

 

学生時代に日本史を学んだ頃より、社会は飛躍的にオートメーション化しましたから、現在は、暗証番号とか、IDとか、「自分だけの数字」の設定を求められることが多くなりました。

 

この「自分だけの数字」つまり、「暗証番号」が多いと思いますが、あらゆる場面に必要となるものの、どんな数字を設定したか覚えていられますか。

 

覚えやすいように、自分の生年月日や車のナンバーを設定したいのは山々ですが、それはダメだと注意されます。

 

銀行の案内でも、本人を容易に推測される暗証番号を設定して発生した事故に関しては、利用者の自己責任となる旨書かれています。

 

あれこれ別々の番号を、幾つも持つのは、返って混乱して不便ですね。

 

実際、皆さんどうされているのでしようか?

 

もしかすると「1192」なんて、盲点になっているかもしれません。

 

でも、もし、この「ひとりごと」をご覧になった方が、「そうだ!」とばかりに「1192」なんてされて、万一事故にあわれても、自己責任であることは、申すまでもありません。

 

なぜならこれは、単なる「ひとりごと」ですから。

 

 

黒田如水

2014年11月2日
テーマ 

日曜日の夜8時から、大河ドラマ「軍師官兵衛」があります。

 

黒田官兵衛考高は、筑前福岡52万石の藩祖黒田長政の父で、豊臣秀吉の天下取りを成し遂げさせた人物と言われます。

 

ドラマでは、いよいよ黒田如水登場となりました。

 

歴史好きな私にとって、黒田官兵衛を語るとき、興味があるのは、豊臣秀吉の軍師と称された人物が、関ヶ原では長政ともども東軍に付き、この戦いの間に九州の西軍関係者を放逐して『平定』したこと、徳川家康からの褒美を一切固辞して福岡太宰府の草庵で暮らしたことでありしました。

 

この辺り、大河ドラマでは、暴君となっていく秀吉への落胆と、これのご機嫌取りに終始する官僚石田三成との確執として描かれています。

 

秀吉は、自分が亡き後天下を取る器は、黒田官兵衛だとして恐れておりましたし、徳川家康が、豊臣秀吉亡き後、直ぐに自分の養女を、前妻と離縁させてまで黒田長政に嫁がせたのも、黒田官兵衛の力を恐れていたからだとされます。

 

関ヶ原で随一の武功をあげた黒田長政の手を取って、「この恩を忘れてはならぬこと、徳川家代々にきっと申し伝えさせる」と徳川家康は言いました。

 

これを聞いた父官兵衛が、子長政に対し、「このとき(家康が、長政の手を取ったとき)片手はどうしたか」と問うたと言うのは、黒田官兵衛を惜しんだ後世の創作だと思いますが、黒田家と徳川幕府の浅からぬ縁を物語るものだと思います。

 

会津藩には、有名な家訓がありますね。例の保科正之による徳川宗家に対する忠勤がそれです。

 

外様大名である筑前福岡藩は、幕末期最後まで、佐幕色が強かったのは、関ヶ原の武功と筑前福岡52万石の成り立ちが、少なからず影響があるのではないかと思うのは、私だけでしょうか?

 

平野国臣、真木和泉、野村望東尼など、福岡には、人物はおりました。

 

さて、決して表に出ず、黒子に徹するがゆえに、黒田官兵衛は、秀吉からも、家康からも恐れられていたのです。

 

しかし、当の官兵衛本人は、天下取りの野望など、持っていなかったのではないでしょうか。

 

「俺が俺が」と出たがり屋は、ある意味底が浅いもので、すぐに力量がバレてしまう,上辺だけの付き合いをしていれば、事足ります。

 黒田官兵衛の中には、天下泰平,もう戦乱の世の中は終わらせるという、一貫した意図・目的がありました。

 

関ヶ原での対応、その後の隠居など、やり遂げた充実感があったのではないでしょうか。

 

決して豊臣を見限り、徳川に味方せよなんて、底が浅いはずがありません。

 

黒田如水 

 

福岡藩は、徳川幕府と心中する必要はなかったのです。倒幕が、天下泰平をもたらすのだとすれば。

 

もちろん、黒田長政公や歴代の藩主を批判したいのではありません。

 

ただ、いつの時代も、賢人の行動の奥にある、見えにくい思いを理解することは難しいのだと感じます。

 

福岡市には、「如水庵」と言う和菓子つくりのお店があります。

 

黒田家14代藩公から、黒田家の藤巴の紋所を賜ったことが由来だそうです。

 

ここの大福は、いちご、こもも、ミニとまと、いよかん、ぶどう、栗、柿など、季節に合わせた逸品が詰められています。

春夏秋冬を超え、隠れたところで、決して外に力量を見せることなく、庶民の安全・天下泰平のため奮闘してきた黒田官兵衛の思いが、大福の皮の中に、隠れて詰められているようです。

 

「大福」、すなわち、「大きな福」は、このとおり福岡市に、多くの幸せをもたらしているのです。

 

コスモスの願い

2014年11月1日
テーマ 

東京地方裁判所立川支部に出頭したときにふと思いました。

 

以前、ひとりごとでも申しましたが、都内23区島嶼部以外の地域を管轄するのが、立川の裁判所です。

 立川は、八王子と並ぶ東京西部,三多摩地区の拠点・中心です。

 

立川と言えば何を思い出しますか?

 

地域に住む方々は、「交通渋滞に悩まされる」,「中野駅からは、立川駅まで直線で繋がるJR中央線がしばしば止まってしまう」などの生活に直結した思いが出てくるのではないでしょうか。

 

裁判所や市役所は、多摩都市モノレール線立川駅のひとつ先の「高松駅」近くにあるのですが、立川駅から進むとき、左手奥に広がるのが「国営立川昭和記念公園」です。

 

この時期、昭和記念公園と言えば「コスモス」と、「箱根駅伝予選会」を想像される方が、多いのではないでしょうか。

 

今年も、初出場校あり、連続出場が途絶えた学校あり、ドラマがありましたね。

 

11月3日までは、コスモスまつりが行なわれます。

 

総面積2万m2、550万本のコスモス10種類が、咲き乱れます。「首都圏のコスモスと言えば昭和記念公園」と言われるほど、定着しているのです。

 

さて、「昭和記念公園」の成り立ちについて、若い世代には、あまり知られていないのではないでしょうか?

 

昭和天皇在位五十年記念事業の一環として、現在及び将来を担う国民が、自然的環境の中で健全な心身を育み、英知を養う場とするための記念公園として、昭和58年10月26日、開園したのです。

 

この場所は、かつて何があり、どんな使い方がされていたか、その歴史をご存知でしょうか?

 

この場所は、旧立川飛行場の跡地です。

 

立川飛行場は、大正時代に開設され、一時期は、民間航空路としても利用されていたところ、満州事変以降の戦時下にあっては、陸軍航空部隊の重要な拠点とされ、これがために、幾度となく、大掛かりの空襲を受けた歴史があります。

 

敗戦後の占領下では、アメリカ合衆国に接収され、立川市と昭島市にまたがる「立川航空基地」が、現れたのです。

 

そしてこの後、「砂川闘争」が起きました。

 

私たち、戦後十数年に生を受けた者にとって、「砂川事件」は、その後大学で学ぶ「憲法」と「司法」に関して大きな影響と、私自身の進路に、ひとつの動機づけとなっているものです。

 

昭和58年11月30日、「立川飛行場」は、アメリカ合衆国から、全面返還されました。

 

そんな歴史と、ひとびとの思いを経て、次代を担う国民の健全のため、若者が走り、家族が集い、花か咲き乱れるのどかな風景が、国営立川昭和記念公園には見られます。

 

ここは、昭和という時代を全て見ていたのです。

 

昭和をここで生きた方々の様々な思いと願いが、実りの秋に絢爛と咲き誇るコスモスの一輪一輪となって、平成世代に何かを語りかけているような気がいたします。

ハロウィン

2014年10月31日
テーマ 

10月31日は、「ハロウィンの日」とされています。

 

ハロウィンは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝祭がキリスト教に取り入れられ、現在のハロウィンになったそうです。

 

もともとは、万物への感謝が、その起源でした。 

この時期、街のあちらこちらで、仮装した男女が見られますね。

 

アメリカなどでは、仮装した子どもたちが、「お菓子をくれなければ、いたずらするぞ」と、家を回る例ですね。

 

日本の子どもたちも、この時期は、「好きな格好が許される!」「多少のわるさは許される!?」と思うのか、楽しそうに見えます。

 

「収穫」は、やはり秋に似合います。

実りの秋、収穫の秋、食欲の秋…。

 

長い冬の間、大地は静かに準備をはじめ、春が到来すると、土を耕し、種を撒き、夏の太陽のもと、いのちを育み、そして、全てが結実するのが秋です。

 じゃがいも、かぼちゃ、秋なすなどの農作物の多く、そして、こうべを垂れた稲穂は、やがて新米として、秋を待って、私たちの前に現れます。

 以前思いを馳せたサケもまた、秋にその生涯を結実させるのでした。

 

私たちは、秋のありがたさを実感するともなく、春夏秋冬その日を生きております。

 

昔の人は、謙虚で偉かったですね。

 

ハロウィンの意味は、子どもたちに語り継きたいものです。

 

しかし、「お菓子をくれなければいたずらするぞ!」とは、危なっかしい感じがしないではありません。

 

当たり前のことをするのに、何か引き換え条件を求めるのはおかしくありませんか?

 

これは、弁護士として業務に携わる過程で、しばしば経験することです。

 

「離婚してもよいが、親権は渡さない」からはじまり、「預かった物は還すけど、お金を寄越せ」などなど。

 

依頼者にとっての理不尽を全て引き受けるのもまた、弁護士の重要な仕事です。

 

ハロウィンの「お菓子を寄せ…」は、子どもたちの大人たちに対する一つのメッセージだと思いましょう。

 

「大地と万物への感謝を忘れて独り占めするなよ、いま自分が喜々としていられるのは、多くの見えないサポートがあったのだよ。」

 

 「だから、次の世代に分け与えようね。所詮お菓子じゃないか‥‥。」

 

 「でも、大人は、わがままはダメだよ。だって、もう充分わがまま言って生きて来たでしょ。」

 

そんな声が聞こえてきそうな「ハロウィン」です。

 

 

千年の古都

2014年10月22日
テーマ 

10月22日は、平安京に遷都した日にあたるそうです。

 

「千年の古都」と称される京都は、794年10月22日から明治時代に入って東京が首都となるまで、日本の政治・文化の中心を担っておりました。

 

子どものころは、「鳴くよ うぐいす 平安京」と年号を覚えたものです。

写真 H26.10.21

平城京遷都の年号は、「南都 立派な 平城京」と覚えました。

奈良を「南都」と呼んだのは、平城京より後のことでしょう。

 

そうすると、平安京が「うぐいす(の声)」に例えられたのも、後世の創作となりましょうか?

 

では、なぜ鳴く鳥として、「うぐいす」を当てたのでしょう。

「鳴くよ カラスが 平安京」では、ダメでしょうか?

「カラス」には、「七つの子」や「夕焼けこやけ」など、古くから童謡に用いられるように、日本人の心を掴んでいるように思われます。

 

それに対して「うぐいす」は、「ウグイス嬢」とも言われるごとく、なぜだか、綺麗・煌びやかなイメージがあり、それが、在りし日の京都を彷彿させるものがあるからでしょうか。

 

奈良が、「なんと立派な」ですから。

そういえば昔、「カラスの勝手でしょ」と言うのがありましたね。

「うぐいす」にするか、「カラス」にするか。

 

はたまた、「泣くよ赤ちゃん」にするか・・・後世の人間の勝手であります。勝手と言えば、晩夏から初秋にかけて鳴く蝉がいます。

あれは、まさしくその鳴き声を和音にして名付けたのだそうです。

 

大学生のころ、毎日鳴き声が聞こえてくるあの蝉について、友人に、「なんであの蝉、『ツクツクボウシ』と言うんだ?」と尋ねたところ、彼は怪訝な顔をして、

 

「だってお前、あの蝉の鳴き声やってみろよ」

と言ったのです。

 

私が、「お〜しんつくつく、お〜しんつくつく」と言ってやりましたら、

 

彼は、「??」と、さらに怪訝な顔をして、会話が続かなくなったことがありました。

 

 

その後、調べてみましたら、「ツクツクボウシ」を、「お〜しんつくつく」と呼ぶ説があることを知りました。

 

これは、千年昔から、解決できない論争かもしれません。