ある病院の点滴用袋に、界面活性剤が投入されていた事件に関する報道から感じたひとりごとです。

2016年10月4日
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横浜市内の病院で、入院患者2名が、点滴に混入された界面活性剤がおそらく原因で、死亡する事件が起きました。警察署は、殺人事件として捜査を開始していて、亡くなった方が入院していたこの病院の4階の患者に投入予定の点滴にも、複数注射針の痕が残っていたと報じられております。

 

そして、この病院に詳しい者による連続殺人の様相を示しているとも報道されています。まず、このような事件に遭って命を落とした方には、哀悼の意を捧げます。

 

この病院では、この2ヶ月近くの間に、4階に入院した患者さんが、50名近く亡くなっていることが異常だとも指摘されているようです。80くらいの病床の病院で、1日に5名も、同じ階の患者さんが亡くなった日もあるとのことですが、病院側は、やや多いとは思っていたものの、死因に不審なところはなく、今回の事件の発生に至ったとされます。

 

この数をどう見るかですが、末期医療を行う病院では、確かにそのように感じられるのかなとも思います。私は以前、ほとんど亡くなる場所として入院患者を引き受ける病院を知りました。また、いわゆる介護療養型病院での『退院』理由の多くは語らずとも明らかです。もしかして、この病院に恨みがある人間による意図された犯行だとしたら、この種病院の盲点でもあったかもしれません。

 

私自身は、介護療養型医療施設は、とても重要と考えます。よくテレビなどでは、人の命をいかに救うかに重点を置いた医師の姿が現れます。それはそのとおりですが、唯一人間が避けられないのは死であります。医師でも救えない命はあります。そんな局面に携わる医師もまた、人として、とても重要な職責を担っていると思うのです。

 

そして、医師を支える看護師さんたち医療スタッフのご苦労には、常に感謝の気持ちを持ちたいです。誰だって目の前で人一人が亡くなることは辛いですから。 さて、この病院に対して、連日多くの電話が外部から入っているそうです。そのほとんどは、『人殺し!』等の病院を非難し、罵倒するものだと言われます。

酷いですね。

こんなことをするのは、不自然な亡くなり方をした患者さんのご家族ではないでしょう。

大切な人を失ったときに、そんな気持ちになれるのものでしょうか。こんな電話がなされているそのときでも、末期医療に携わるこの病院は、患者さんのため、できる限りのことをしているでしょう。

 

医師看護師他スタッフ皆さん、本当は、やってられない気持ちでしょう。

でも、目の前の患者さんを放ってはおけません。

この『事件』に関して、病院が被害者だとまでは言いませんが、病院に対してこんな匿名の電話をかけて何になるのでしょうか。 いつも同じようなことを言いますが、弱っている人、反発できない、する余裕もない人に対して匿名の電話をかけたり、ネットを利用して投稿するような人は、『本件』とは直接関係のない人です。

 

社会的、経済的、何よりも精神的に、パッシングを受ける人よりも、優位な地位にある人たちです。弱っている人たちをさらに徹底的にやり込めること、これは、私が最も嫌いなやり方、生き様です。単に『暇だな』くらいで、放っておいてよいものでしょうか。

あることについてミスした、あるいは迷惑をかけた、するとそのことについて、これでもか!って執拗にやり込める傾向になっているように思います。なんででしょう。何か自分が偉くなった、英雄気取りになった人が増えているのではないでしょうか?自分自身に拍手するがごとく……。自分が被害を受けたわけではないし、その対象とされた人とは、接点を持ちようがない人こそが、こんな態度に出ていると思うのです。

 

関係ないから、繋がりがないから、何をやってもバレない、自分が追われる、責任を問われることはないと思っているが故に、やってるのでしょう。情けないですね。 社会的非難と言う問題については、法律家を志したときから、とても関心がありました。むしろ、そんな社会を無くしたいとの思いから、法律実務家を志したとも言えるかもしれません。

 

子どもが何かしでかしたら親が非難される、夫が何かやったら妻が追いかけ回される、なんでだと思いました。そして、最近のネットに見られる匿名社会がさらにこの問題に、拍車を掛けているようです。

 

弱っている人にこそ優しくの社会に進まないのはなぜでしょう。弱っている人をやり込めることが強さであると勘違いしているのでしょうか。強さを求める社会が、こんな現実を生み出した一因であると考えるものです。

山崎拓元衆議院議員作といわれる『ヒラメ議員』について。

2016年10月3日
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福岡2区選出の元衆議院議員、ヤマタクさんこと山崎拓氏は、いわゆるYKKのおひとり、あることさえなければ、自民党の総理総裁候補とされました。現役当時は、『あること』はともかく、そのタカ派的発想で、私はあまり好きな政治家ではありませんでした。


福岡天神あたりを年数回ウロウロしている私は、何回か衆議院議員総選挙の期間に当り、ヤマタクさんの姿を見たことがあります。福岡に帰っても、あまり博多弁を喋らない方だなくらいの関心しかなかったです。

その山崎拓氏、政界引退後、存在感を発揮しています。

先日の加藤紘一元自民党幹事長の葬儀には、長年の親友として、想いのこもった見送りの言葉を述べられました。また、集団的自衛権の行使や安保法案を巡っては、やはり自民党の幹事長を歴任した野中広務氏や古賀誠氏らとともに、『反対』を言うのみならず、現在の自民党の変容、特にモノを言えない現実を嘆いておりました。


その中で、今では慣用句になったのではとも思える『ヒラメ議員』なる名言?は、山崎氏の作とされます。ヒラメ社員やヒラメ裁判官なんてあちらこちらに飛び火しているようです。

『ヒラメ議員』とは、上ばかり見て、ものを言えぬ後輩たちへの嘆きとして出た発言でした。組織内で生き残るためには、これを統率する者にひれ伏し、そのご機嫌取りに終始することを意味します。かつての派閥華やかりしころは、各派勉強し、また、競い合って右から左までバランスのとれた団体とされたのが自由民主党でした。先の安保法制で、唯一反対の意思を表明した村上誠一郎氏は、最近『不自由民主党』と言われました。

ヒラメ議員にとっては、統率者が有能か無能かは関係なく、また、自分がどう考えるかも関係なく、どう組織で生き残るかが大事です。ただ上ばかり見ているのも困りものですが、寝たふりすることで、密かに上に反発心を認めているところ、上から釣り上げられるのも困りものです。ヒラメは、そんな釣られ方をしますから。

先日の国会、衆議院本会議場で、所信表明演説をしている安倍晋三内閣総理大臣が、自衛隊員らに対する敬意を表すべく自ら拍手をし、また、議場に拍手を呼びかけたところ、ほどんどの自民党議員が起立して、拍手したことがありました。これが議会制民主主義では、あってはならぬことは、この『ひとりごと』でも書きました。


ついでに言っておきますが、流石に異常を感じたほどんどの報道機関がこれを掲載したところ、唯一政府与党を常に持ち上げるヒラメ以上の大手新聞社は、『かつて民主党政権発足時にもあった』と掲載したそうです。

どこに目をつけているのか、こんなときにだけ、自民党が民主党から学んだと民進党を持ち上げる?のも不可解ですが、今回何が問題なのかわかっていないか、わざと誤魔化していますね。改めて申します。

内閣総理大臣の所信表明演説とは、国権の最高機関である国会から指名を受けて内閣の長となり、その組閣した組織が執政するにあたり、国会から求めれて出席してその方針やあり方等を 説明する国会、国民に向けられたひとつの約束の場面です。自らに酔い、賛同を求める場でもなければ、自分を指名した国会に対して、何か要求する場でもありません。


しかも議会を主宰するのは議長です。すなわち立法府の長は、この方の勘違いにも関わらず、衆議院議長であります。その説明義務を果たす途中に、議員に対して拍手を要求するなんて、議院内閣制も議会制民主主義も、はたまた三権分立もわかってないですね。だから国会の議事進行に差し障りがあるとして、大島理森衆議院議長が注意したのです。

これに対して、かつての民主党員が、当時の鳩山由紀夫内閣総理大臣が衆議院本会議の議場にいるときに拍手したのは、所信表明演説が終わったときです。内閣総理大臣に限らず、壇上での演説が終わったら、ありがとうご苦労さんの意味があるかどうか知りませんが、拍手しているのはごく普通ではありませんか。議事進行中に、しかも内閣の長が議員に拍手を求めることが憲法上問題があると言うことです。念ため起立!について言えば、誰のため、何のための起立かという問題があります。


私たち法律実務家は、法廷に裁判官が入ってきたとき、起立します。これは裁判官に服しているのではありません。裁判官も立ったままこうべを垂れるのは、法廷の神聖に一礼するのです。これからこの場をお借りして、皆の努力により紛争を解決するのでどうぞ見守ってくださいの趣旨です。内閣総理大臣のために起立したのだとしたら、ヒラメも起き上がれると言うことでしょうが、安倍晋三内閣総理大臣の演説の中身からすると、海上保安庁、自衛隊、警察の諸君となるのでしょうか。

私たちは、彼らを『諸君』なんて呼びませんが、公務員として国民のために日夜奉仕しているのは、この3方だけではありません。だいいち、最も奉仕すべきは、この場に居る方々ではありませんか。防衛警察等の権力行使者をことさら称えるのは、違和感があります。

今日は、ヒラメ議員のお話でした。

上ばかり見て……と言われるのがお嫌いな方はおります。昨年安保法案が衆議院可決した直後、説明不足と批判したーーしかし賛成したーー小泉進次郎衆議院議員は、今回の件が取り上げられ、その異常性が指摘されるや、『言い訳』を始めました。

あれはおかしいと言うのです。なぜおかしいのか言いません……。そしてなんか釣られて自分も起立してしまった、要は異常な雰囲気に飲まれたかに言うのです。

これこそ寝たふりしていたヒラメが釣られたことを、物語るではありませんか。ヒラメは、上ばかり見なくても、ただそこに黙って居るだけで、上から釣られます。ヒラメに成り下がった国会議員、さっさと辞めてしまえと言いたいです。

 

国会議員は、全国民の代表なのであって、ある組織のボスに忠誠を誓うために、議員歳費を受けているのではないはずです。

2016年9月30日
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第192会臨時国会が招集されました。国権の最高機関である国会には、国会から指名された内閣総理大臣以下政権を担う内閣が出席し、国民の代表である国会から委託された国政の運営に関し方向性や大まかな政策を説明し、かつ、その後開かれる各委員会等で質問に答えます。


これは国会、国民に対して責任を持つ議院内閣制のあり方です。

さて、国会開催にあたり、内閣を代表して安倍晋三内閣総理大臣が、所信表明演説を行いました。政権与党は応援し、野党は批判するのは習わしで、その後続く各党首の演説でも、双方からヤジが飛ぶことは、もう年中行事ですし、その行事に慣れた議員は、居眠りしていますね。


これをテレビ中継等で知らされる側も、もううんざり、慣れてしまって文句も言いません。ただ、今回の安倍晋三内閣総理大臣の演説と、これを受けた自民党議員の振る舞いには、異常と不安、反発を覚えざるを得ません。何処の国?って感じです。

安倍首相、例によって『世界一』を8回も繰り返し、中高ならとうに卒業している年数が経過しているのに、相変わらず道半ばと言うアベノミクスをさらに進めるとか、成果をもたらすとか言い、まだまだ日本は成長できるなんて同じことを言っていました。


まあ、それは良しとしましょう。問題は、我が国の領土、領海、領空は断固として守り抜く、強い決意を持って守り抜くことを誓うと述べた後、『現場では夜を徹して、いまこの瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊員の諸君が任務に当たっています。


いま、この場から、彼らに対して心からの敬意を示しそうではありませんか』と述べ演説を止め、自ら拍手を始めま他ことです。そしてある政党の党首が、『異常な光景』と評した自民党議員が起立して手を叩き、それが20秒にも及んだとされる件であります。

かつて『立法府の長、私は立法府の長なんです!』って何回も叫んでいた安倍首相、ここは自分が長としてとり仕切る場所と勘違いしていたのでしょうか。

内閣は、国民の代表が揃った国民主権の根幹である国会に呼ばれ、この場で自らの職責の重要性に思いをいたして約束する立場です。自分で自分の演説に酔って拍手するのはおめでたいことかもしれませんが、国会、ここでは衆議院議長の許可なく、議員に拍手せよと求めるのは、三権分立の観点からも疑義があります。

それ以上に『異常』なのは、内閣総理大臣、すなわち行政府の長に促されて拍手を送って約20秒国会の機能を止めた自民党議員です。はっきりと言って、バカじゃないかと思います。自分たちの職責をなんと心得ているのでしょう。ある自民党の長老は、『スタンディングオーベーションに感動した』なんで言いました。

スタンディングオーベーションは、演技や演奏に感動した観客がら送る最大限の賛辞とされます。国会議員が、内閣総理大臣の件の発言や態度に、最大限の賛辞を表したってことなのでしょうか?国会とは、そんなことをする場所ですか。

さすがに議事進行が妨げられたとして、大島理森衆議院議長は、議員に?注意をしました。当たり前です。そう言えば一昨年末の衆議院議員総選挙が行われるために、解散証書が読み上げらる途中に一部自民党議員が、『万歳!』した場面がありました。このとき当時の伊吹文明衆議院議長は、議員に『注意』しました。バンザイは、この場でするものではないーー議長の読み上げを終わったら、どうぞお好きなようにーーと言うわけです。私は、2012年問題と言われるごとく、政権奪還後、巨大与党一強多弱の時代になって、与党議員は、何をおいても総理総裁に右に倣え、その一挙一動を注意深く観察して、常にこのご意向にそう対応をすることに、全力を注いでいるように思います。


これはたぶんに小選挙区制も影響しているとは思います。ハナから自分たちの責務、国会と内閣の関係なんて、理解する気はありませんね。

国会を自らの政府のパフォーマンスの場とする行政府の長、国会も、国民も舐めれたものですね。ある野党の重鎮が言っていました。『この政府の姿勢と、これが国民に受け入れられるとすれば、国民と日本社会の異常性を感じた』と。

続けて、あのようなことは、これまで日本の議会では見られなかった。北朝鮮か中国共産党大会みたいな感じだとも所感を述べています。

この野党の重鎮、北朝鮮や中国を批判してるのではありません。北朝鮮は、北朝鮮なりの共和国体制であり、中国共産党大会は、いわば党大会であつて、身内で拍手したからどうってことないでしょう。


実際自民党大会でも、拍手や全員起立はありますから。要するに、それが国民の代表機関から出席を求められ、国権の最高機関の場に登壇して、国民に対する所信表明演説をする際に行うべきものか、また、国会議員は、全国民の代表なのでり、自分の組織のボスに忠誠を誓うために、この場に居て、議員歳費を受けるのではないということであります。本当に情けないです。

件の野党党首の言うとおり『不安』です。

 

誰でも、無料で、国宝と指定された建造物の中で、勤行に参加できる場所のご案内です。

2016年9月29日
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今日も、西本願寺のお話です。

 

西本願寺には、いくつ国宝があるのでしょうか?建造物だけでも7つ国宝に指定されています。中高の教科書でも、桃山時代の遺構とされる唐門や飛雲閣は、掲載さていたでしょう。唐門、飛雲閣、書院(対面所・白書院と言われる場所)、北能舞台、黒書院及び伝廊に加え、一昨年より阿弥陀堂と御影堂が、国宝に加わりました。

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建造物以外の宝物としては、開祖親鸞聖人が活動した鎌倉時代の作とされる観無量寿経註や阿弥陀経註等があることも、知られていると思いますが、なんと平安時代作とされる宝物も残されているのです。私は、宝物のうち、幾つ国宝があるのか、正確にはわかりません。 以前お話ししたと思いますが、国宝のうちいくつかは、誰でもいつでも、開門時間内ならば拝観することができます。と言うよりも、阿弥陀堂と御影堂、これは西本願寺境内に入ると誰でも上がると思うのですが、タダで解放されているのです。唐門も常時見れますし、飛雲閣等も、予約すれば拝観可能です。

 

 

なぜ予約が必要かと言えば、西本願寺の関係者が、拝観希望者に付き添って、案内するからです。ちなみに、お東さん、東本願寺の建造物は、明治以降の建築だそうです。浄土真宗の寺院では、原則阿弥陀堂と御影堂が設けられております。西本願寺に入ると、本堂にあたる阿弥陀堂、そして親鸞聖人の木像があって、浄土真宗本願寺派の重要行事が行われる御影堂は、回廊で繋がっています。さて、境内に入った途端、そのスケールの大きさに、驚くかと存じます。 阿弥陀堂は、江戸時代の1760年に再興された状態で、ほぼ保存されています。中央に阿弥陀如来像を安置し、左右になにか仏様のような像、そしてなぜか聖徳太子とされる像があるのです。

 

これが浄土真宗の本堂で、西本願寺の阿弥陀堂は、東西および南北に、いずれも40m以上の長さがあり、高さも25mあると案内されていました。ちなみに、浄土真宗のご仏壇には、中央に立位された阿弥陀如来像があり、左右には、親鸞聖人と蓮如上人が描かれております。 阿弥陀堂と回廊で繋がるのが御影堂です。こちらは1636年の再建で、東西48m、南北62m、高さ29mで、阿弥陀堂より一回り大きいです。

 

 

その名のとおり親鸞聖人の木像が真ん中におわして、左右には、本願寺歴代の門主の御影が安置されています。西本願寺の行事は、この御影堂です行われます。畳441枚の広さで、1.200名が、一時に参拝できる広さです。そして、私が西本願寺に参拝した時刻、ちょうど日没勤行が行われておりました。当然誰でも、無料で参加できます。これが浄土真宗本願寺派の素晴らしいところだと思っております。 西本願寺の開門は午前5時30分、誰でも境内に入れます。午前6時から、晨朝勤行が行われます。要は、朝のお勤めで、阿弥陀堂で、そして御影堂で続けて行われます。御影堂でそのまま布教すなわち、仏様に関するお講話があります。その後昼間の時間帯には、いくつか行事があり、午後4時から行われる日没勤行が、最後のお勤めとなります。

 

そして閉門は、午後5時30分です。 私が『参加』した日没勤行もまた誰でも、無料で参加できるので、観光客の皆さんも、珍しそうに、また、「ラッキー」って感じで、参加?していました。これも阿弥陀堂と御影堂で行われます。真面目な門徒ではない私は、 「ナモアミダブツ」くらいしか唱えられませんが、お寿寿を用意したご門徒さんが、多く参加されています。

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日没勤行とは、例の10年におよぶ石山戦争のとき、矢弾の中、お勤めを欠かさず続けられたのが、『日没勤行』になったそうです。このお勤めが終わると、お堂の正面は閉めれます。 最近ご葬儀を行われた方が仰っていました。そのご家庭は、無宗派で、仏様もお墓もなく、ご葬儀に関して、葬儀屋さんにその方式等を相談したところ、浄土真宗を勧めれたそうです。

 

その理由は、面倒がなく、緩くて簡単だから……だそうです。確かにそうですね。浄土真宗の教えは、亡くなった瞬間に、誰でも阿弥陀如来の本願力により仏様になられ、極楽浄土で暮らすことが約束されています。

 

そして残された者は、喪に服することも、霊を慰める必要もなく、返って御仏になられた方が、俗世界の凡夫である私たちをお救いになると言う教えであります。私は、他を排除しない、相対主義であり、誰でもどうぞの浄土真宗は、人に優しい宗派だと思います。これからも西本願寺に詣でて、優しいを学びたいと思っています。

大阪京都と東京、東本願寺と西本願寺。実は仲が悪いのではありません。

2016年9月28日
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今日は少し浄土真宗のお話をさせていただきます。

 

開祖親鸞聖人、そして中興の祖第8代蓮如上人のころは、浄土真宗はひとつでした。

 

親鸞聖人が1262年に90歳で没したのは、現在の京都市中京区の押小路と言う場所ですが、現在の京都東山にある『鳥野辺』なる場所で荼毘に付され、近くの『大谷』に墓所を設けたそうです。数年後親鸞聖人の末娘覚信尼により、この地に『大谷御廟』が建立、1272年ころより、この地が『本願寺』と称されるようになったと言うことです。

 

親鸞聖人の御影像を移すなどし、現在の西本願寺に残る御影堂、阿弥陀堂の元となるお堂もできました。しかしその後比叡山からの圧力等もあり、また、各地に分派した勢力内の争いもあって、本願寺は、やや廃れた感となったようです。そして1465年第8代蓮如の時代に、本願寺は、比叡山延暦寺により破壊され、蓮如は近江国に逃れ、その後北陸方面で布教を行い、蓮如上人は、浄土真宗の中興の祖と言われたのです。 やがてときは戦国時代、第11代の顕如までは、その教えから、巨大集団となった浄土真宗は、ときの権力者から、敵視されることになります。

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すなわち人々には上下はなく、支配し押さえつけられることはない、常に阿弥陀如来により極楽浄土で生きることが保証されているとの教えは、力で支配を強める戦国武士団には相容れず、権力者からの解放と言う精神的支柱になっていったからです。関東の北条氏、薩摩の島津氏等長きにわたって領内での真宗は禁教とされ、徳川家康に至っては、若いころから浄土真宗を禁止していたと言われます。悪人正機説や即応成仏の思想は、戦国大名には馴染まなかったのでしょう。

そんな中で、越後の上杉謙信や越前の朝倉義景は、浄土真宗の理解者とされていて、また、中国地方を治めた毛利氏も、浄土真宗とはむしろ手を結ぶような政策を取っておりました。そんなところから、稀代の天才かつ狂人?革命児織田信長は、徹底的に浄土真宗を嫌い、10年におよぶいわゆる『石山合戦』が繰り広げられるのでした。 蓮如上人は、第9代宗主、現在の浄土真宗では門主と言われる教団トップを五男実如に譲り、自らは、大坂石山に隠居所を設けました。大阪御坊と言われる大阪の地に、これが契機に本願寺は移りました。

こうして『石山本願寺』が出来上がったたのです。石山本願寺の前には、町が広がり、寄進もあって、石山本願寺は、相当広い堅固な牙城のごときシンボルとなっていたとされます。これを自分よりも強い、巨大な存在を、信長が許すはずがありません。また、大阪は、西国への入口、毛利水軍と親交がある石山本願寺は、信長にとっては許すべからざる存在でありました。ただ本願寺は、武装集団ではありません。ここに信仰のために集まる者に対して、自分こそ神と信じている信長をしても、一気に攻め込むことはせず、石山本願寺の明け渡し、他所への移転を求めていたのです。

 

最終的には、調停の仲介もあって第11代顕如は、1580年に石山本願寺を明け渡して、紀州の地に本願寺を移す和解を織田信長との間で取り交わしました。これが石山本願寺10年戦争と言われるものです。 ところで、顕如は12代となる長男教如とともに徹底抗戦を唱えておりましたが、やがて信長との和睦に傾いたところから信長を徹底的に嫌う長男教如らは、やはり徹底的に交戦する意思を固め、必ずしも徹底的に抗戦する意思を強め、宗主の顕如の判断に納得していたのではないとされます。

 

それで信長との和解により顕如が石山本願寺を去った後も教如ら一部強硬派は居残り籠城、顕如は教如を義絶しました。これが本願寺が『東本願寺』と『西本願寺』に分かれた遠因とされます。

結局教如も、京都の公家らの説得を受けて数ヶ月後に石山本願寺を退去します。しかし退去のその日、石山本願寺は火に包まれ炎上、この巨大な建造物は消失したのです。そしてその1年少し経った日に、本能寺の変が起こりました。それを契機に朝廷の取りなしで、顕如と教如は和解し、ともに寺務を行うことになりました。

そして翌年石山本願寺の跡地に豊臣秀吉により、大阪城が築造されたのでした。
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石山本願寺そのものは無くなりましたが、秀吉の時代になり、本願寺は活動の再開ができました。石山本願寺の跡地に秀吉が大阪城を築造したことが影響しているのかどうかわかりませんが、本願寺は、大阪の地に復活、最初は元石山本願寺の末寺で布教していたものの、数年後には秀吉の寺社寄進により、現在の大阪市天満に阿弥陀堂と御影堂が設けられ、ついで1592年、天下統一した豊臣秀吉により、京都の地に本願寺は寄進を受けました。

これが現在の『西本願寺』の場所であります。

本願寺の京都の移転とほぼ同時期に、信長らとあいまみれて戦国時代を生き抜いた顕如が亡くなり、教如が本願寺を承継しました。ところが、かつて教如をして強硬路線に転じさせた側近が『復権』しました。これに不安を感じた顕如の正室で、教如の母である如春尼は、顕如の遺言だとして、三男の准如を第12代にするよう豊臣秀吉に直訴したと言われます。

これを受けた秀吉は、教如を大阪城に呼び、穏健に勤め、10年後には弟にあたる准如に宗主を譲るよう申し渡しました。しかし、教如の側近が反発したことから、教如は秀吉により排斥されました。准如が第12代となり、教如は、本願寺の端っこの場所で『裏方さん』として、布教活動を行う日々になったと言うことです。

失礼を承知で申しますと、ある意味、豊臣秀吉により宗主となった准如は、かつて教如を支持した一部僧侶門徒からは、秀吉に降参したものとみなされ、もともと存在しないではなか った本願寺の内部分裂が、加速する気配が漂いました。もっとも、教義が異なるわけではなく、ともに親鸞聖人蓮如上人らの教えを広めることには変わりはありません。

ですから本願寺内部、浄土真宗が分裂することはありません。しかしこれに目をつけたのは、徳川家康でした。西本願寺にある国宝飛雲閣は、秀吉が贅を凝らした聚楽第の遺構とも言われるのは、准如との関係があったからだと言われます。

秀吉の死後、もともと西国の信者が多い浄土真宗でしたから、関ヶ原の戦いでは、西国武将が多く含まれていた西軍に味方したように、家康には映りました。家康は、教如を本願寺の宗主にしようとしたところ、側近の本多正信は、既に信長のころから本願寺は、准如を中心とする表派と、教如を中心とする裏方に分かれているから、教如を徳川幕府が推して、本願寺を一本化する必要はない、むしろ『分裂』を加速させるべく、准如らの関ヶ原の戦いの責任を取らせない代わりに、反対に、教如には土地を与えて浄土真宗を布教させるかたちを取らせ、浄土真宗本願寺の力を弱めた方が良いと意見したと言われます。

それで教如は、堀川七条の本願寺の端っこにあった隠居所から、本願寺から少し離れた六条烏丸に移り、ここに本拠を置き、翌年親鸞聖人の木造を迎え、『本願寺』を称することになりました。すなわち、准如を12世宗世とする本願寺教団と、教如を12代宗主とする本願寺教団の2つができました。秀吉の寄進により建築された本願寺の東側に、もうひとつ本願寺ができました。

それで教如を宗主とする本願寺を『東本願寺』と言うようになりました。これに合わせていつころからか、もともとの本願寺は、『西本願寺』と呼ばれるようになったと言うことです。東本願寺は真宗大谷派、西本願寺は、浄土真宗本願寺派となるのです。

ふたつの本願寺、どう違うの?ですが、浄土真宗本願寺派の門徒である私も、よくわかっておりません。本願寺派は焼香は1回、南無阿弥陀はナモアミダブツと唱えることくらいでしょうか。世間では、本願寺派=穏健派、大谷派=武闘派、あるいは
ハト派とタカ派に例えられることもありますが、浄土真宗内部では、そのような意識はないでしょう。西本願寺が、尊皇攘夷運動を応援していたと言われるのは公然の秘密?ですが、東本願寺も幕末時には、倒幕派と気脈を通じていました。

ちなみに、かつての長州、山口県の浄土真宗の門徒は、100%本願寺派と聞きました。反対に、関東には浄土真宗本願寺派は少ないのは、徳川幕府の影響だと言われます。1617年本願寺の別院として、本願寺派の寺院が、江戸浅草にできました。明暦の大火で消失後は、江戸幕府は建築を許さずしません。そこで門徒たちが集まって、海を埋め立てて築造されたのが築地本願寺でした。築地とは、浄土真宗の門徒たちが土地を作ったことから名がつきました。

今、臨海副都心の埋め立てが東京では流行っています。最近では、豊洲市場の移転に関して、都民の間でようやく問題点が露にされたようです。徳川幕府、冷淡に扱った浄土真宗本願寺派が、まさか海の上に寺院を作るなんて想像していなかったのかもしれません。東京都庁も、まさかあんなところに埋め立てしたことで、都民から糾弾されるとは思っていなかったのかもしれません。バレないだろうと。

真宗の信者たちは、阿弥陀如来に手を合わせると、自分は何もしなくても、本願力により救われると思っています。でも、都民のために仕事をすべき都知事をはじめとする都庁の皆さんは、何もしなくても、また、何をやっても救われないことはないとでも思っていたのでしょうか。必死にやることで、神仏は、思し召しをくださるのだと思います。

京都から帰ってテレビを見ての感想でした。もっと本願寺を勉強したいです。