自然界でも帳尻を合わせはある。
2015年1月29日
1月25日の『日本最低気温の日』を過ぎて数日ですが、東京都内では、朝の最低気温が6.9度と寒さが緩み、湯島天神では、早咲きの梅が咲き始めたそうです。
静岡市でも最高気温は15度を超え、たんぽぼも見られたとのことであります。
この気候で困惑されられ、ショッキングな出来事が、北海道で起きたようです。
雪の季節は当然冬眠すると信じられていたヒグマが現れ、人を襲ったと言うことです。
子どものころにクマの冬眠を教えられましたが、冬の間は、クマに遭遇しないわけではありません。
活動を停止し、低体温で過ごす、摂食も排尿もしないとは言え、メスは出産期でもあり、巣穴近くに行けば、クマはそこにおります。
温度が上がって季節外れの雨となった札幌市では、来月5日から開催される『さっぽろ雪まつり』のために作製中の雪像が、溶け出す有様だそうです。
山岳地域では、雪崩が心配です。
札幌の方々が、しばしば言われることがあります。
それは、結果的に冬季の降雪量は、トータルで毎年ほとんど変わらないと言うことです。この冬は、昨年12月に記録的な積雪量だったと報じられました。
年が明けても新千歳空港の閉鎖がありました。
ところが雪まつりを前にして、1日の最高気温が0度を超えることはまずない時期なのに、5度にもなって雨が降ったのです。2年前の11月17日、私は札幌市に居たのですが、この年は、まだ初雪がない(翌日18日が初雪でした)と聞いて驚いたところ、なんとこの冬は、以後たいへんな雪の当たり年となったのでした。
札幌市内は、概して雪まつり期間中には、ドカ雪とはならず、雪まつりが終わった2下旬ころに、最期のまとまった降雪となる例のようです。地元の人たちは、豊平川の河川敷に運搬された市内各場所から除雪された雪の山が結局いつも同じだから………。
このように理解しているのだと聞いたことがあります。
『帳尻を合わせ』と言う言葉があります。
意図されたものではないのでしょうが、自然界でも結局いつも同じ結果となることはあるのでしょう。
北海道札幌市の雪は、これで終わりではないと思われます。
また、梅の芽が綻んで、寒さに対する備えを解いてはいけません。まだ、東京も、寒さが振り返すと考えでおくべきです。
実は私の仕事時間も、『帳尻を合わせ』のきらいがないではないことを認めなければなりません。
すなわち、人間である以上、年間を通して働ける時間とこれに相応する体力には限りがあります。
あるときは土日祝日なんてあり得ず、休みなくあれこれやっていたとして、別の時期にはしっかり休んでいる、あるいは『いい加減』にしていることはあるのです。
私は、『帳尻を合わせ』と言う言葉は嫌いではありません。
自由意思論と自己責任論
2015年1月28日
最近の世論調査で、死刑制度を存続させることは止むを得ないと考える人の割合が、初めて前回調査時より減じたと報じられました。
どれくらい減ったのかと言えば、約80%の人が『存置派』されていて、微減だそうです。
減った理由として、袴田事件のように、誤判があったら取り返しがつかないと考える慎重派が出たのではないかと分析されております。
凶悪犯罪は減少しているのに、そうではないようなマスコミ報道は、ある意味国民意識に支えられていると言えるかもしれません。
裁判員裁判が開始されて以降、死刑判決が増加していることも事実です。
しかし、実際国民が死刑判決に関わるようになったから、死刑制度の存続に慎重な意見が形成されつつあるのかもしれません。
今日は、死刑の存廃について語るのではありません。最近の風潮から、大学1年の秋、初めて刑法総論を学んだときの感動と言うか、引き込まれた原点に思い至ったからであります。
死刑は、しばしば応報刑と言われます。道義的責任論に基づくもので、その前提には、自由意思論があります。
つまり、自分の自由な意思判断で、そのような行為をしたのだから、その報いは自ら受けるのだと言う考え方です。
しかし、これだけでは説明のつかないことがあります。もし、人生が決まっていたら、自分の意思ではどうにもならない現実があったら、それは道義的責任を問えるのか?と言う疑問です。例えば、悪い事をして、刑罰を受けるなど相応な報いを受ければ、もうそんな悪い事を止めるはずではないか。
それなのに常習犯と言われるような繰り返し悪いことをする人たちがいる。彼らは、生来の犯罪者ではないとしても、素質や出自等により、そうなることを運命つけられているか、少なくとも自分の意思努力のみではどうすることも出来ないのではなかったか?
これは決定論と言われる学説で、犯罪の責任は道義的責任ではなく、社会的責任を問うのだと言う考え方です。刑罰は、応報ではなく教育とするのです。
ただし、決定論から発した社会的責任論であれば、そのような犯罪者を生み、そのままにしている社会こそ責任を問われるのかと思いきや、そうではありません。
教育してもダメな場合は、社会から隔離する、すなわちこの考え方でも、死刑制度は支持されることもあるのです。
今申しましたように、決定論から発する社会的責任論は、矛盾があります。
社会は、そのような人たちに寛容でなければならないのでは?
また、だからと言って、人間は、一定程度自分ではどうにも出来ないところからスタートしている部分があることは否定出来ないとしても、やはりその中で、自らの努力により変えていく、自立することは可能だろう、だから道義的責任論も社会的責任論も極端に過ぎ、その人なりの志や努力を尽くしたけれども、やはり『こうなってしまった』結果に関しては、社会や国家は、その限度で受け入れるべきではないのか?これが近代国家の通説となっているのです。
さて、今、『イスラム国』による日本人人質事件が起きました。
政府は、人命尊重の立場から、救出そして解決に、全力を尽くすことは疑う余地はありません。気になるのは、またしても出てきた『自己責任論』です。
かつてのイラク戦争の人質事件の折、危険の場所に自分の考えで行ったのだから責任は自分自身にあると言い出されたことが思い出されます。
私の記憶が正しければ、最初にこれを言い出したのは、政府が対策に窮していた段階で、役人すなわち官僚によるマスコミを前にしての発言だったと思います。
何もあの時国民は、政府を非難していなかったと思います。
発言の当初は、凄い違和感だけでありました。
ところが、自己責任論は、あっと言う間に火が付いたようにあちらこちらで、触れ回られました。
人質となった者が悪いのであって、国には責任はない、金と時間をかけるのはおかしい等の論調に変わったのです。
なんと残酷なことでしょう。今、生命身体等の危険のが限界に達している状況を、そうなった者自らが解決しろと言うのですから。
今回の人質事件の方々は、報じられる限りでも、戦闘地域に好き好んで行ったのではありません。
地域の人々から尊敬されていたとも報じられています。
かつてで学んだ自由意思論が思い出されました。
全部自分自身の考えでやったことだからその結果、すなわち報いを受けるのは当然だと言う考え方とオーバーラップしました。
自分が困難な状態になったら、他人や社会の助けを求めたくても、そうなったのは自分の責任だとあなたは割り切れますか?
以前『明日は我が身』を言いましたが、私は、自分自身に自信はありません。
いつか助けを求めたい事態に遭遇するかもしれません。本当に、『自己責任論』で済まされるのでしょうか?
今度余市に行って来ます。
2015年1月27日
NHK朝の連続ドラマ『マッサン』は、5週連続で視聴率が20%台をキープしているようです。
朝ドラマッサンについては、これまで何回か関連する事柄を書きました。それでも第16週で北海道に突入してからもなお、人気は衰えることがありません。
事実が全て朝ドラのようだったとは言えないのかもしれませんが、この魅力的な人々、感動のシーンは、なお語りたくなります。
第16週『人間到る処青山あり』は、3年前余市の鰊御殿の殿様森野熊虎氏より、人間出自がどうだとか、前の仕事がどうだとかなーんも関係ない。
この土地は、志を持った人間が、一からやり遂げ、天下を取ることができる場所だと言われて背中を押されてウイスキー造りのために余市に来たマッサンが、今度は、苦境に陥りながらもなお子孫のため、ここに故郷を残してやりたいと願う熊虎さんの思いを引き継ぐと言う話でありました。
確かに世の中は広い、骨を埋める場所くらいどこにでもある、大望を成し遂げるためには、どこにでも行って活躍するべきだとは言えましょう。
マッサンが最初勤めた大阪でもそうでしたが、マッサンと妻エリーの周りには、苦境に陥ったマッサンを救う人たちが集い、今度はマッサンとエリーが、その人たちと交わってサポートし、一緒に事を成し遂げることになっていくのです。
これは、マッサンエリーの人柄と言えばそれまでですが、良い人の周りには人が集まる、志を持った人間の周りにはこれを受け継ぐ者が出るのは、歴史が示しているように思えます。
朝ドラマッサンでは、後のサントリー創業者となる鳥居信次郎氏(ドラマでは鴨井の大将)は、技術者であって経営者になりきれないマッサンを、厳しくそして優しく北海道に送り出しました。あの退職金のシーンは見事でしたね。マッサンのモデル竹鶴政孝氏は、生涯鳥居氏への恩義を忘れず、サントリーと張り合うことをしなかったそうです。
今、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』では、主人公の兄松蔭吉田寅次郎先生(吉田松陰を尊敬する私は、自然と『松陰先生』と出てしまいます)が、その志のためには死をも厭わない生き方が描かれております。松蔭先生の志と教えは、松下村塾の弟子達が受け継ぎました。弟子たちは、離れなかったのです。少し話題が逸れました。松陰先生の話になると、…。悪い癖ですね。
マッサンこと竹鶴政孝氏の偉いところは、彼はオーナーにはならなかったことだと思っています。
朝ドラでもそうでしたが、マッサンは、ニッカウヰスキーの株主ではありません。頑なまでに本物のウイスキーを造る、ただそれだけに集約された人生だったと言われます。現在ニッカウヰスキーは、アサヒグループホールディングス株式会社が、100%株式を保有しておりますが、戦後間もない時期より過半数の株式は、朝日麦酒株式会社が保有しながらも、朝日ビール側は、一切竹鶴氏のやり方に、口出ししなかったと言われます。
これもまた、竹鶴政孝氏の人柄でしょう。
ある国では、ナッツリターン事件の余波があるようですが、マッサンが夢を託した会社は、財閥世襲ではないことはもちろん、綿々とマッサンの志を継ぎ、決して利益、商売ではない姿勢で、本物の美味しさ素晴らしさを世に継承し続けているのだと思います。
あまり大きな声では言えませんが、実は私は、高校生のころは、深夜の勉強の眠気覚ましと称して、外国航路の通信士だった父が買って来たスコッチウイスキーを毎晩――少しずつですよ!――飲んでいました。
それが福岡に赴任後は、すっかり焼酎党になって、ウイスキーは飲まなくなりました。マッサンを見て、『故郷』を思い出した感があります。
余市には行ったことはありますが、そんなわけでわざわざニッカウヰスキー株式会社の蒸留所には立ち寄ったことはありません。マッサンに取り憑かれたようです。今度は、仕事とは全く関係なく小樽そして余市に行って、ニッカウヰスキー工場を訪ねるつもりです。
続報?をお待ちください。
ああ上野駅
2015年1月26日
先日ですが、上野駅を利用しました。
上野駅を通ることはありますが、上野駅のいわゆる下のホームから、乗車することは、珍しいことです。
上野駅の下のホーム、13番線から17番線までは、ローマ中央駅に似て、『行き止まり』になっております。ここは、まさしく終着駅そのもののようであります。
どこかに故郷の香を乗せて、入る列車のなつかしさ‥‥‥。
集団就職、出稼ぎ、金の卵等等、懐かしい思いがおありの方が、いらしゃるしょう。上野駅は、東北の匂いがするとは、よく、小説やドラマで言われるところです。
上野駅が、終着駅らしくなくなったのは、東北新幹線が東京駅始発となったこと、夜行列車がほとんどなくなったことが、影響していると思います。さらに近々、これまで常磐線等上野駅が終点だった電車を、一部東京駅まで延長する計画が進行しておりますから、上野駅の終着駅らしい面影は、さらに薄れると思われます。
終着駅と言うと、奥村チヨさんの落ち葉の舞い散る停車場は、悲しい女の吹きだまり‥‥‥‥。を思い出すのは歳がバレそうですが、秋の寂しさがマッチする感があります。
ても進化する上野駅には、なぜか愛惜の念を感じないのでは?それは、終着駅らしさを失ったからでしようか?
いっぽう、どうにも『終着駅』が似合わない路線がありますね。
ぐるりと回る山手線です。
でも、それぞれの駅には、何かのイメージがあるように思います。渋谷駅は、若者が集う、新橋駅は、サラリーマンオジサンの街、代々木駅は、予備校学生が多い等です。
若者の匂い、オジサンの匂い?
山手線には、ターミナル駅と言われる駅が多いですね。例えば、新宿駅には、私鉄である小田急線、京王線が入っています。こちらにとっては、新宿駅は終点、終着駅なのです。 小田急線、京王線で終点新宿駅に着いた人は、やれやれお疲れ様、あるいは愛惜の思いがあるでしょうか?
こらから仕事だ!遊びに行くぞ!等等、この先への通過点であるとが多いのではないしようか?
上野駅も、まさに通過点ですね。
くじけちやならない人生が、あの日、ここから始まった‥‥‥。
ああ上野駅の歌詞です。
上野駅は、終着駅でもあり、始発駅だったのです。それは、朝私鉄の終着いて、さあ、これから頑張るぞ!‥‥‥。新宿駅と同じですね。
鉄道には終着駅はあっても、人生には終着駅はありません。
『徹底』『発展』の意味とは
2015年1月23日
高等学校で使用される教科書に、誤解を招く記載があるとして、浄土宗が、本格的調査に入ると言うニュースが報じられました。
法然を開祖とする浄土宗が、法然とその弟子であった浄土真宗の開祖親鸞の関係をめぐる高校社会科倫理の教科書に、『法然は親鸞に劣る』とも受け取られかねない記述があるとして、発行元に訂正を申し入れることも視野に入れた本格的調査に乗り出すのだそうです。文科省が把握する浄土宗が問題にしている記述は、『(法然の教えを)親鸞が徹底させた』あるいは『発展させた』との部分は、法然の教えが不徹底だった、あるいは、未完成で劣っていたと受け取られかねいと言うことなのだそうです。
巷では、宗教界もたいへんだな、生き残りをかけて競争しなければならないのかなんて思われるのかもしれません。でも私は、これは『法然対親鸞』、宗派の優劣等が問題なのではなく、次代を担う子どもたちに大きな影響を与える教科書問題に、一石を投じたものとして受け取りたいと思います。浄土宗によれば、伝統仏教の各教団には、それぞれ完成した教義があるのに、現状は、公教育の場で、それぞれが比較の対象となって、その優劣が論じられる事態となっている、宗教に寛容であるべき教育基本法の精神にもそぐわないと言うものです。確かに『徹底』『発展』の言語の意味からは、浄土宗が懸念することも、わからないではありません。
浄土宗からの指摘を受けて、一部の教科書発行元は、同様の意見が研究者からもあったとして訂正した、あるいは訂正を含めた検討チームを設けて研究しているとの対応だそうです。これがあたかも『教科書検定』のごと国からの注文によるのではなく、教科書発行会社の自主的対応――本当ならば――であったことが良かったと思います。
宗教宗派はいろいろありますが、私は、基本的にその教義は絶対的な教えであると受け取っています。極論すれば、他の教えは認めないか、少なくとも自派の教義こそ最善だと強調する本質があると思っています。ですから浄土宗が言うように、その優劣など国や公教育で論じられてはならないのです。民主主義は、相対性を前提にして成り立ちます。様々な考え意見思想を尊重し合った社会が形成されるという原理です。これは戦前の反省の上に、政教分離が保障された日本国憲法の基本でもあります。
たかが宗派の争いではないと受け取りました。ところで、親鸞上人を開祖とする浄土真宗は、この『騒動』をどうみているのでしょうか?
浄土真宗は、江戸時代に本願寺派と大谷派、すなわち西本願寺と東本願寺に分かれました。本願寺派は、「宗教の知識と意義については、公平に教える必要があるが、(問題とされた記載が)直ちに不適切とは言えない」。大谷派は、「親鸞が法然の教えを自己に徹底させたと言うことであって不適当ではない。これを訂正する言うなら、学界等の多数の見解を踏まえて総合的に判断されるべきだ」と表明しております。
これを聞いた人は、他人事だなとか、呑気だなと感じられたかもしれません。実は、私が理解する浄土真宗は、全くと言ってよいほどかたちにとらわれず自由、世の中には善人悪人の区別はないと言うものであります。すなわち、寛容なのです。ある意味、「どうでも良い」と言う理解です。
こんなことを言ってしまうと、浄土真宗の門徒さんから、たいへんなお叱りを受けるかもしれません。実は、我が家の宗派は浄土真宗西本願寺派です。浄土真宗式の仏壇があり、ときどきご住職様にも来ていただいて、ありがたい説法を賜ります。その中で、私なりに到達したのは、上記の結論です。細かいことが嫌い、ひところ流行ったアバウトな人間からすすると、まさに、救われるご教義なのです。
京都にある西本願寺は、国宝がたくさんあります。西本願寺のシンボルとも言える御影堂と阿弥陀堂は国宝ですが、誰でも入れます。拝観料も不要です。この夏、西本願寺に参りましたが、暑さの中、外国人観光客が、ランニングシャツ1枚で休んでおり、前庭では、近くの子どもたちが追いかけっこに興じておりました。とても寛容なのです。
こんなふうに申しますと、私と違って真面目な門徒さんから怒られるとして、結局浄土真宗の宣伝をしているのではないかと批判されそうです。そんな気はございませんが、こんなかたちで宗派を語ることができるのも、宗教の寛容性であり、浄土真宗のかたちにとらわれない自由なところと理解していただければと思っております。