マッサンが暮らした余市

2015年1月16日
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NHK朝の連続テレビドラマ『マッサン』は、主人公マッサンが、いよいよ北海道余市に移るところとなりそうです。

 

マッサンのモデルとなったニッカウイスキー創業者竹鶴政孝氏は、広島県竹原市の出身ですが、実家が造り酒屋を経営していたこともあって、大阪の酒造会社に勤務したところ、ウイスキーに魅せられ、スコットランドに留学、帰国後日本発の国産ウイスキー造りをしてこれを日本人に飲んでもらいたく、後のサントリーの創業者となる鳥居信次郎氏が経営する寿屋でこれに励み、同店の山崎工場で、ウイスキーを完成させたものです。しかし、竹鶴氏が造り出したウイスキーは、匂いやコクにおいて、まだ日本人の趣向とは合わず、売れません。

鳥居氏は、お客さんに好んでもらう、こちらからお客さんに歩み寄るとの考えであり、本物志向の竹鶴氏とは徐々に方向性が乖離し、結果竹鶴政孝氏は、ビート泥炭がたくさん採取でき、気候風土も本場スコットランドに近いと思えた当時ニシン漁に沸く北海道余市にて、ウイスキー造りを始めたと言うことであります。

 

余市町にいらっしゃったことはありますか?余市は、かつて『北のウオール街』と呼ばれて戦前栄えた小樽市の隣町で現在の人口は約2万、積丹半島の付け根に位置し、少し西に行くと岩内、ニセコそして羊蹄山に繋がります。マッサンで、さらに余市の名を聞く機会があると思いますが、これまでも結構『余市』なる言葉を聞いたことがあると思います。

 

例えば、宇宙飛行士毛利衞氏、長野オリンピック金メダリスト船木和喜氏、斎藤浩哉氏は余市町出身です。また、北星学園余市高校は、全国からあらゆる生徒が集まることで知られ、ここの元教師義家弘介氏は、自民党衆議院議員となっています。

マッサンでも放映されると思いますが、余市は、ニシン漁等で栄えた街のイメージに加えて、リンゴやサクランボの産地でもあり、まさに山海の美味を堪能できる町であります。私も数年前、小樽出張の後立ち寄ったことがありますが、獲れ過ぎて無造作に漁港に並べられたホッケやカレイを、ほとんどタダ同然で分けてもらった経験があります。

 

焼酎党の私は、ニッカウイスキーは、それこそススキノのバーに連れて行ってもらった折口をつけた程度で、マッサンには申し訳ないのですが、新千亢港の行きつけの飲食店においてある余市ワインは、北海道ではお預けとなった焼酎に代わって、北海道を離れる最後の機会として、いつも飲んで帰ります。やはり、余市は、果実も美味しいと言うことです。

 

人口2万人と言う数字は、私が住む東京都下の自治体の人口よりも少ないです。でも、マッサンが世に出る前から、余市の知名度は全国区です。ここに暮らす人々が、地元地域に深い愛情と誇りを持って、一生懸命余市を守り、発展させ、後の世に受け継ぐ努力をされているからだと思います。

 

都会は、全国あらゆるところから、あらゆる人たちが集まり、皆を受け入れているようには見られます。それは悪いことではないのでしょうが、よく人間性が希薄と言われますね。東京で生まれ、東京で暮らす私も、この町を誇りに思い、発展させる努力をしようとは、残念ながら思えたことはありません。近頃、中央と地方の考え方文化や、大切にしたいもの等について、ギャップが言われることがあります。マッサンも、余市に移るについては大きな覚悟があったと思いますが、この町余市を愛し続けたはずです。この土地で採れるリンゴを汁にした『日果林檎ジュース』から、ニッカウイスキーは始まりました。

 

私たちは、自分が生を受け、また、育んでくれた町に感謝し、いつか原点回帰したいと思うものであります。

 

明日は我が身

2015年1月15日
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昨年末のある日ある時刻に、Yahooニュースのアクセス数のトップを飾った記事として、『バキュームカー爆発』が報じられました。これは、中国広西チワン族自治区河地市の商店街で、通りかかったバキュームカーが、突然爆発したという悲惨な事故を報じたものです。タンクを満載にした車輌が爆発しで、あたり一面「悲惨すぎて直視できない状況」を映した画像は、非公開とされたようです。

 

バキュームカーってなに?の世代の方々は、こんなニュースには関心はないでしょう。関心を持った方々は、被害者に対する同情とか、事故からの教訓、再発防止を願ってニュースに釘付けとなったのでしょうか?

 

それは違うでしょう。興味をそそられた、さらに言えば、面白い話題だったから引きつけられたのだと思ってしまいます。

 

他人の不幸?に興味を持つのは、悲しいかな人間の性なのかもしれません。最近では、遭遇した事故の様子を写メに収め、動画にして配信するような事案をよく見聞きします。高速道路走行中の事故渋滞に悩まされるのは仕方ないですが、反対車線なのに、『見物渋滞』の表示が出ていると、「なんだ!」と思います。

 

でも、バキュームカー爆発のニュースや、対向車線の交通事故に関心を持てる状況にあるのは、幸せだとまでは言えないとしても、余裕がある人たちだと思います。余裕がないとパニックになり、パニックになるとさらに余裕がなくなる悪循環です。余裕を持って生活することは良いことではあります。

 

ただし、他人の不幸をただ不幸として眺めるのは止めたいものです。楽しんで生きるには、他人の気持ち立場を理解してこそ幸せになれるのだと思います。

 

バキュームカー爆発を報じた現地マスコミは、「人生は楽しく過ごさなければならない。なぜなら、いつの日にか、糞尿を浴びるかもしれないからだ」と論評していました。

 

明日は我が身、日々他人の幸せ、自分の幸せを願って真面目に生きようということでしょうか。

 

駅伝に魅せられて〜襷の重要性〜

2015年1月14日
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 冬になると、駅伝大会が多く開催されます。もちろん、単なる大会ではなく、勝負を競い、技能を磨くスポーツであります。関東の大学が集う箱根駅伝があまりにも有名ですが、元旦には、実業団が日本一をかけて競うニューイヤー駅伝が、1月中には、男女それぞれ都道府県対抗駅伝大会が、開催されます。

先日、女子対抗都道府県駅伝が行われました。都道府県駅伝は、中学生から社会人まで、何区間か受け持って、それぞれ所属するチームの襷を繋ぐシステムです。今年は、21世紀に生まれた中学生から、最高齢39歳のベテランまで、参加されたと言うことです。

この女子の大会は、ゴールするまで接戦で、トラック勝負となりました。優勝したチームから4位のチームまで、それぞれ1分の差だったそうです。まさしく最後までわからない、諦めてはならない見本のような結末ですが、ここに襷を繋ぐ駅伝の素晴らしさがあるのでしょう。自分ひとりのためではない、みんなの思いと努力(汗と涙)が染み込んだ襷を受け継ぐ意義です。

駅伝の襷には、単にその年、そのときの参加者だけの思いが染み込んでいるのではないと言われます。例えは、箱根駅伝では、その学校の歴史、代々受け継がれて来た伝統の汗と涙が詰まっているとのだと紹介されます。それゆえでしょうか、駅伝の選手は、どんなに苦しくても、予期せぬアクシデントが発生しても、中々棄権の決断をされません。スポーツの厳しさ素晴らしさは、テレビ放映の限度でしかわからない素人からすると、ときに悲鳴を上げたくなるシーンに見舞われます。

最近先人の努力、歴史と伝統を真摯に承継しようとはしない動き、むしろ、戦後レジームの脱脚などと聞こえの良い言葉を発して、これをひっくり返すかの動きを感じます。言葉を発する方は、強い信念がおありなわけですが、こんな言葉を聞いた若い人たちは、例えば、『河野談話』『村山談話』を良く読み、ましてその背景や外交交渉の経過など知らないまま、「格好良さ」に引きつられている気がしてなりません。今、自分がここに有るのは、先人が、長い歴史の中で失敗と反省を繰り返し、しかし、耐えず努力を怠ることなくもたらした成果であることを理解しなければならないと思いますし、私を含めた世代が、伝えていかなければならないことでありましょう。

成人の日を迎え、『襷の重要性』に思いいたした次第です。

 

信頼関係を築くには

2015年1月13日
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2015年1月2日と3日、今年も新春恒例の箱根駅伝が行われました。

青山学院大学が、10時間50分を切る史上最高のタイムで初優勝しました。

 

青山学院大学は、レース前優勝候補の一角に挙げられておりましたが、本命とされる大学や連覇を狙う大学もあり、実際断トツの完全優勝を予想した人は、必ずしも多くはなかったのではないでしょうか?

 

青山学院大学の監督さんは、脱サラして退路を断ち、縁もゆかりも無い青山学院大学に、11年前に奉職されたそうです。そのころは、30年以上も箱根駅伝出場から遠ざかっていた大学を、2年後には大会に出場させ、翌年からは連続出場のシード権を獲得し、ここ数年は、強豪校のひとつに挙げられるまでになって、遂に初優勝を成し遂げられたたいうものであります。

 

スポーツ界では、『名選手必ずしも名監督にあらず』と言われてはいるものの、自身元陸上選手ではあったとは言え、箱根駅伝に出場経験がなく、関東にも無縁な生活を続けていた会社員が、よくこの道を選び、また、結果を出されたと感心いたします。『外様』で結果が現れない時期、廃部の危機もあったそうです。

 

青山学院大学の原監督は、サラリーマン経験がとても役立ったと言われました。会社員時代、営業を担当して、人と接すること、会話し、信頼を得ることの大切さを学んだそうです。

多くの駅伝監督は、勝つためには、マネジメントとリクルートの重要性を仰います。それはそうなのだと思います。よく、スカウトと言う言葉が使われますが、原監督は、自ら新規部員を探し出しては直接話をし信頼を得ること、マネジメントの本質は、管理ではあるけれども、効果を得るためには、良いと思ったことはどんどん取り入れること、営業成績を上げるべく、かつて自身が獲得目標を置いた経験を活かして、学生には、常に高いところに目標を設定するよう、自主性を重んじたと報じられでおりました。

 

これは、学ぶべきところは多いです。人から信頼を得るにはまず自分から飛び込むこと、そしてよく話をすることでしょう。また、良い結果を得るには、手が届きそうなところで納得妥協するのではなく、掴み取るような努力を要すると言うことだと思います。これを言うは易しではありますが、選手学生達も、よく実践できたものと思います。監督に対する信頼が強固だったからでしょうか。

 

弁護士業務に携わる過程で、よく、裁判等で良い結果を得るには、何が大切ですか?と問われます。私は、依頼者と弁護士との信頼関係だと答えます。ですが、この信頼関係をいかに強いものとしていくか、これは言うは易し、しかし永遠のテーマに違いないといつも思っています。そんなとき、信頼を得て結果を出した方々から学ばなればならないと心する毎日であります。

 

青山学院大学優勝おめでとうございます。

 

明太子の日

2015年1月10日
 1月10日は、『明太子の日』です。知る人ぞ知るではありますが、昭和24年のこの日、現在は福岡市中州を本社とする株式会社ふくやが、初めて『辛子明太』を店頭に並べて販売したことに因んだのだそうです。

今では福岡みやげの定番となった辛子明太ですが、ふくや創業者初代川原俊夫氏が、戦後満洲から福岡に引き揚げた後、子どものころ、韓国釜山で暮らしたときに食べた味が忘れられず、独自のやり方で研究を重ね、これを日本の食卓でも食べられるよう、遂に販売にこぎ着けたということです。初代は、皆に食べて欲しいとの思いでしたから、周囲の人たちに作り方を教え、これが広まって、「明太子を販売したい」と言う事業者が出れば、丁寧に伝授したと言われます。商標登録せず、特許も取得せず、ただ食べてもらいたい思いだったと述懐されました。ですから、福岡市内に数ある明太子販売業者の中で、ふくやは、『元祖』を名乗らないのです。

福岡で暮らしたことがあり、福岡大好き人間の私は、もともとあまり辛子明太は食しませんでした。それは、唐辛子が苦手と言う理由もありましたが、三方が海に面し、博多湾の先玄界灘は屈指の漁場である福岡県の名産が、スケソウダラの卵を使った加工品というのは勿体無い、「な~んだ、やっぱり魚は北海道だな」と言われるのではないかと思われるのは、悔しい思いがあったからです。

随分狭い了見でした。初代川原社長は、利益や権利、名声?なんか関係なく、ただこんな美味しい食品は、広くみなさんに食べて欲しい思いだったわけです。一昨年、福岡市をホームタウンとするサッカーJリーグ第2ステージに属する『アビスパ福岡』が、資金難で、Jリーグからの強制脱会の危機が報じられた折、株式会社ふくやは、明太子のギフトセットの売上代金全額を、アビスパ福岡に寄付する支援活動をされました。その結果、用意した2296セットは瞬く間に完売となり、約900万円と見込まれた売上金は、全てアビスパ福岡に渡されたのです。危機を脱したアビスパ福岡は、今年は、元日本代表主将を務めた井原正巳氏を監督に迎え、次のステップに進むことができました。

このころから、私は、ふくやの明太子をよく食べるようになったのです。全て直営方式のふくやの明太ですが、きさらぎ法律事務所は、通販の会員になり、大切な方々に、ふくやの明太子を食していただいております。因みに、きさらぎ法律事務所は、『アビスパ福岡』の法人後援会『ソシオ』に所属してもおります。

最近、日韓の交流、あり方について、あちらこちらで議論がなされおります。今では、日本全国の食卓に欠かせない明太子は、満洲そして釜山を経由して、素晴らしい先人の努力によりもたらされたものだと知る人は少なくなったのでしょう。いっぽうでは、インスタントラーメンは、日本から韓国にもたらされた歴史があります。『歴史は忘れてはならない』と言うことでしょうか。