黒田如水

2014年11月2日
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日曜日の夜8時から、大河ドラマ「軍師官兵衛」があります。

 

黒田官兵衛考高は、筑前福岡52万石の藩祖黒田長政の父で、豊臣秀吉の天下取りを成し遂げさせた人物と言われます。

 

ドラマでは、いよいよ黒田如水登場となりました。

 

歴史好きな私にとって、黒田官兵衛を語るとき、興味があるのは、豊臣秀吉の軍師と称された人物が、関ヶ原では長政ともども東軍に付き、この戦いの間に九州の西軍関係者を放逐して『平定』したこと、徳川家康からの褒美を一切固辞して福岡太宰府の草庵で暮らしたことでありしました。

 

この辺り、大河ドラマでは、暴君となっていく秀吉への落胆と、これのご機嫌取りに終始する官僚石田三成との確執として描かれています。

 

秀吉は、自分が亡き後天下を取る器は、黒田官兵衛だとして恐れておりましたし、徳川家康が、豊臣秀吉亡き後、直ぐに自分の養女を、前妻と離縁させてまで黒田長政に嫁がせたのも、黒田官兵衛の力を恐れていたからだとされます。

 

関ヶ原で随一の武功をあげた黒田長政の手を取って、「この恩を忘れてはならぬこと、徳川家代々にきっと申し伝えさせる」と徳川家康は言いました。

 

これを聞いた父官兵衛が、子長政に対し、「このとき(家康が、長政の手を取ったとき)片手はどうしたか」と問うたと言うのは、黒田官兵衛を惜しんだ後世の創作だと思いますが、黒田家と徳川幕府の浅からぬ縁を物語るものだと思います。

 

会津藩には、有名な家訓がありますね。例の保科正之による徳川宗家に対する忠勤がそれです。

 

外様大名である筑前福岡藩は、幕末期最後まで、佐幕色が強かったのは、関ヶ原の武功と筑前福岡52万石の成り立ちが、少なからず影響があるのではないかと思うのは、私だけでしょうか?

 

平野国臣、真木和泉、野村望東尼など、福岡には、人物はおりました。

 

さて、決して表に出ず、黒子に徹するがゆえに、黒田官兵衛は、秀吉からも、家康からも恐れられていたのです。

 

しかし、当の官兵衛本人は、天下取りの野望など、持っていなかったのではないでしょうか。

 

「俺が俺が」と出たがり屋は、ある意味底が浅いもので、すぐに力量がバレてしまう,上辺だけの付き合いをしていれば、事足ります。

 黒田官兵衛の中には、天下泰平,もう戦乱の世の中は終わらせるという、一貫した意図・目的がありました。

 

関ヶ原での対応、その後の隠居など、やり遂げた充実感があったのではないでしょうか。

 

決して豊臣を見限り、徳川に味方せよなんて、底が浅いはずがありません。

 

黒田如水 

 

福岡藩は、徳川幕府と心中する必要はなかったのです。倒幕が、天下泰平をもたらすのだとすれば。

 

もちろん、黒田長政公や歴代の藩主を批判したいのではありません。

 

ただ、いつの時代も、賢人の行動の奥にある、見えにくい思いを理解することは難しいのだと感じます。

 

福岡市には、「如水庵」と言う和菓子つくりのお店があります。

 

黒田家14代藩公から、黒田家の藤巴の紋所を賜ったことが由来だそうです。

 

ここの大福は、いちご、こもも、ミニとまと、いよかん、ぶどう、栗、柿など、季節に合わせた逸品が詰められています。

春夏秋冬を超え、隠れたところで、決して外に力量を見せることなく、庶民の安全・天下泰平のため奮闘してきた黒田官兵衛の思いが、大福の皮の中に、隠れて詰められているようです。

 

「大福」、すなわち、「大きな福」は、このとおり福岡市に、多くの幸せをもたらしているのです。

 

コスモスの願い

2014年11月1日
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東京地方裁判所立川支部に出頭したときにふと思いました。

 

以前、ひとりごとでも申しましたが、都内23区島嶼部以外の地域を管轄するのが、立川の裁判所です。

 立川は、八王子と並ぶ東京西部,三多摩地区の拠点・中心です。

 

立川と言えば何を思い出しますか?

 

地域に住む方々は、「交通渋滞に悩まされる」,「中野駅からは、立川駅まで直線で繋がるJR中央線がしばしば止まってしまう」などの生活に直結した思いが出てくるのではないでしょうか。

 

裁判所や市役所は、多摩都市モノレール線立川駅のひとつ先の「高松駅」近くにあるのですが、立川駅から進むとき、左手奥に広がるのが「国営立川昭和記念公園」です。

 

この時期、昭和記念公園と言えば「コスモス」と、「箱根駅伝予選会」を想像される方が、多いのではないでしょうか。

 

今年も、初出場校あり、連続出場が途絶えた学校あり、ドラマがありましたね。

 

11月3日までは、コスモスまつりが行なわれます。

 

総面積2万m2、550万本のコスモス10種類が、咲き乱れます。「首都圏のコスモスと言えば昭和記念公園」と言われるほど、定着しているのです。

 

さて、「昭和記念公園」の成り立ちについて、若い世代には、あまり知られていないのではないでしょうか?

 

昭和天皇在位五十年記念事業の一環として、現在及び将来を担う国民が、自然的環境の中で健全な心身を育み、英知を養う場とするための記念公園として、昭和58年10月26日、開園したのです。

 

この場所は、かつて何があり、どんな使い方がされていたか、その歴史をご存知でしょうか?

 

この場所は、旧立川飛行場の跡地です。

 

立川飛行場は、大正時代に開設され、一時期は、民間航空路としても利用されていたところ、満州事変以降の戦時下にあっては、陸軍航空部隊の重要な拠点とされ、これがために、幾度となく、大掛かりの空襲を受けた歴史があります。

 

敗戦後の占領下では、アメリカ合衆国に接収され、立川市と昭島市にまたがる「立川航空基地」が、現れたのです。

 

そしてこの後、「砂川闘争」が起きました。

 

私たち、戦後十数年に生を受けた者にとって、「砂川事件」は、その後大学で学ぶ「憲法」と「司法」に関して大きな影響と、私自身の進路に、ひとつの動機づけとなっているものです。

 

昭和58年11月30日、「立川飛行場」は、アメリカ合衆国から、全面返還されました。

 

そんな歴史と、ひとびとの思いを経て、次代を担う国民の健全のため、若者が走り、家族が集い、花か咲き乱れるのどかな風景が、国営立川昭和記念公園には見られます。

 

ここは、昭和という時代を全て見ていたのです。

 

昭和をここで生きた方々の様々な思いと願いが、実りの秋に絢爛と咲き誇るコスモスの一輪一輪となって、平成世代に何かを語りかけているような気がいたします。

ハロウィン

2014年10月31日
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10月31日は、「ハロウィンの日」とされています。

 

ハロウィンは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝祭がキリスト教に取り入れられ、現在のハロウィンになったそうです。

 

もともとは、万物への感謝が、その起源でした。 

この時期、街のあちらこちらで、仮装した男女が見られますね。

 

アメリカなどでは、仮装した子どもたちが、「お菓子をくれなければ、いたずらするぞ」と、家を回る例ですね。

 

日本の子どもたちも、この時期は、「好きな格好が許される!」「多少のわるさは許される!?」と思うのか、楽しそうに見えます。

 

「収穫」は、やはり秋に似合います。

実りの秋、収穫の秋、食欲の秋…。

 

長い冬の間、大地は静かに準備をはじめ、春が到来すると、土を耕し、種を撒き、夏の太陽のもと、いのちを育み、そして、全てが結実するのが秋です。

 じゃがいも、かぼちゃ、秋なすなどの農作物の多く、そして、こうべを垂れた稲穂は、やがて新米として、秋を待って、私たちの前に現れます。

 以前思いを馳せたサケもまた、秋にその生涯を結実させるのでした。

 

私たちは、秋のありがたさを実感するともなく、春夏秋冬その日を生きております。

 

昔の人は、謙虚で偉かったですね。

 

ハロウィンの意味は、子どもたちに語り継きたいものです。

 

しかし、「お菓子をくれなければいたずらするぞ!」とは、危なっかしい感じがしないではありません。

 

当たり前のことをするのに、何か引き換え条件を求めるのはおかしくありませんか?

 

これは、弁護士として業務に携わる過程で、しばしば経験することです。

 

「離婚してもよいが、親権は渡さない」からはじまり、「預かった物は還すけど、お金を寄越せ」などなど。

 

依頼者にとっての理不尽を全て引き受けるのもまた、弁護士の重要な仕事です。

 

ハロウィンの「お菓子を寄せ…」は、子どもたちの大人たちに対する一つのメッセージだと思いましょう。

 

「大地と万物への感謝を忘れて独り占めするなよ、いま自分が喜々としていられるのは、多くの見えないサポートがあったのだよ。」

 

 「だから、次の世代に分け与えようね。所詮お菓子じゃないか‥‥。」

 

 「でも、大人は、わがままはダメだよ。だって、もう充分わがまま言って生きて来たでしょ。」

 

そんな声が聞こえてきそうな「ハロウィン」です。

 

 

千年の古都

2014年10月22日
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10月22日は、平安京に遷都した日にあたるそうです。

 

「千年の古都」と称される京都は、794年10月22日から明治時代に入って東京が首都となるまで、日本の政治・文化の中心を担っておりました。

 

子どものころは、「鳴くよ うぐいす 平安京」と年号を覚えたものです。

写真 H26.10.21

平城京遷都の年号は、「南都 立派な 平城京」と覚えました。

奈良を「南都」と呼んだのは、平城京より後のことでしょう。

 

そうすると、平安京が「うぐいす(の声)」に例えられたのも、後世の創作となりましょうか?

 

では、なぜ鳴く鳥として、「うぐいす」を当てたのでしょう。

「鳴くよ カラスが 平安京」では、ダメでしょうか?

「カラス」には、「七つの子」や「夕焼けこやけ」など、古くから童謡に用いられるように、日本人の心を掴んでいるように思われます。

 

それに対して「うぐいす」は、「ウグイス嬢」とも言われるごとく、なぜだか、綺麗・煌びやかなイメージがあり、それが、在りし日の京都を彷彿させるものがあるからでしょうか。

 

奈良が、「なんと立派な」ですから。

そういえば昔、「カラスの勝手でしょ」と言うのがありましたね。

「うぐいす」にするか、「カラス」にするか。

 

はたまた、「泣くよ赤ちゃん」にするか・・・後世の人間の勝手であります。勝手と言えば、晩夏から初秋にかけて鳴く蝉がいます。

あれは、まさしくその鳴き声を和音にして名付けたのだそうです。

 

大学生のころ、毎日鳴き声が聞こえてくるあの蝉について、友人に、「なんであの蝉、『ツクツクボウシ』と言うんだ?」と尋ねたところ、彼は怪訝な顔をして、

 

「だってお前、あの蝉の鳴き声やってみろよ」

と言ったのです。

 

私が、「お〜しんつくつく、お〜しんつくつく」と言ってやりましたら、

 

彼は、「??」と、さらに怪訝な顔をして、会話が続かなくなったことがありました。

 

 

その後、調べてみましたら、「ツクツクボウシ」を、「お〜しんつくつく」と呼ぶ説があることを知りました。

 

これは、千年昔から、解決できない論争かもしれません。

 

クライマックスシリーズ

2014年10月17日
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10月、プロ野球界では、「クライマックスシリーズ」が行われています。

 

 クライマックスシリーズは、形式的には、「日本シリーズに出場するチームを決める手続」と言えます。

そして、プロ野球の日本一を決めるのは、「日本シリーズ」だと思います。そもそも「クライマックス」とは、最高潮,山場などの「その場面の盛り上がり」を意味するような言葉であり、各試合には、勝敗を決する山場となる場面,見る人の歓声が、最高潮に達する場面はあったと思います。

 

「さらに場面が盛り上がる」という意味で、「クライマックスシリーズ」と名付けたのでしょうか。

 これと同じようなシステムは、サッカーJリーグには、J1に昇格するチームを決める「プレーオフ」や、J2,J3の「入れ替え戦」があります。

 こちらは、「クライマックスシリーズ」とは言わないようです。

 

 私は、プロ野球日本一を決定する試合に参加できるチームを決めるシリーズを、どうして「クライマックス」と呼ぶようになったのか存じません。

 

 ここでもやはり、観客動員の意図が働いていることは否めないでしょう。また、リーグでの順位がほぼ決まってしまうと、プロでありながら、モチベーションが下がり、いわゆる「消化試合」のごとくなってしまったら、ファンに対して失礼だとの思惑もあるのでしよう。

 

でも、あえて「クライマックス・・・」なんて言わなくでも良いように思いますが。

 こんなふうに思ってしまうのは、おそらく日本語読みをするからでしよう。

 

意地悪く考え れば、クライマックスシリーズが終わったら、「もう最高潮の場面はないの?」「山場は見られないの?」となってしまいます。

 日本人は、英語力に弱いと言われますが、そうであるがゆえに、横文字を上手く、都合良く?使っていると思います。日本一決定戦の参加資格を獲得するゲームを「最高潮」「山場」と囃し立てても、なんかおかしい感じがしませんか?

 しかしこれを、「クライマックスシリーズ」と一言表現するだけで、すんなり収まる感じがするのはなぜでしょう。

 

つまり日本人は、英語力がない、本当は、横文字が苦手だから、五感の作用で受け取るしかないからではないでしょうか?

 

ちなみに、アメリカ大リーグでは、「ワールドシリーズ」と言いますね。英語圏では、この参加資格を得る試合は、さすがに「クライマックスシリーズ」とは言えないのではないのでしょうか。

 

モチベーションが、motiveとactionの造語であるなんて考える必要はないでしょう。

こうして見ると、日本人は、日本人に合う上手い横文字の使い方をしているなと思うのは、私だけでしょうか?