国会議員は、全国民の代表なのであって、ある組織のボスに忠誠を誓うために、議員歳費を受けているのではないはずです。

2016年9月30日
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第192会臨時国会が招集されました。国権の最高機関である国会には、国会から指名された内閣総理大臣以下政権を担う内閣が出席し、国民の代表である国会から委託された国政の運営に関し方向性や大まかな政策を説明し、かつ、その後開かれる各委員会等で質問に答えます。


これは国会、国民に対して責任を持つ議院内閣制のあり方です。

さて、国会開催にあたり、内閣を代表して安倍晋三内閣総理大臣が、所信表明演説を行いました。政権与党は応援し、野党は批判するのは習わしで、その後続く各党首の演説でも、双方からヤジが飛ぶことは、もう年中行事ですし、その行事に慣れた議員は、居眠りしていますね。


これをテレビ中継等で知らされる側も、もううんざり、慣れてしまって文句も言いません。ただ、今回の安倍晋三内閣総理大臣の演説と、これを受けた自民党議員の振る舞いには、異常と不安、反発を覚えざるを得ません。何処の国?って感じです。

安倍首相、例によって『世界一』を8回も繰り返し、中高ならとうに卒業している年数が経過しているのに、相変わらず道半ばと言うアベノミクスをさらに進めるとか、成果をもたらすとか言い、まだまだ日本は成長できるなんて同じことを言っていました。


まあ、それは良しとしましょう。問題は、我が国の領土、領海、領空は断固として守り抜く、強い決意を持って守り抜くことを誓うと述べた後、『現場では夜を徹して、いまこの瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊員の諸君が任務に当たっています。


いま、この場から、彼らに対して心からの敬意を示しそうではありませんか』と述べ演説を止め、自ら拍手を始めま他ことです。そしてある政党の党首が、『異常な光景』と評した自民党議員が起立して手を叩き、それが20秒にも及んだとされる件であります。

かつて『立法府の長、私は立法府の長なんです!』って何回も叫んでいた安倍首相、ここは自分が長としてとり仕切る場所と勘違いしていたのでしょうか。

内閣は、国民の代表が揃った国民主権の根幹である国会に呼ばれ、この場で自らの職責の重要性に思いをいたして約束する立場です。自分で自分の演説に酔って拍手するのはおめでたいことかもしれませんが、国会、ここでは衆議院議長の許可なく、議員に拍手せよと求めるのは、三権分立の観点からも疑義があります。

それ以上に『異常』なのは、内閣総理大臣、すなわち行政府の長に促されて拍手を送って約20秒国会の機能を止めた自民党議員です。はっきりと言って、バカじゃないかと思います。自分たちの職責をなんと心得ているのでしょう。ある自民党の長老は、『スタンディングオーベーションに感動した』なんで言いました。

スタンディングオーベーションは、演技や演奏に感動した観客がら送る最大限の賛辞とされます。国会議員が、内閣総理大臣の件の発言や態度に、最大限の賛辞を表したってことなのでしょうか?国会とは、そんなことをする場所ですか。

さすがに議事進行が妨げられたとして、大島理森衆議院議長は、議員に?注意をしました。当たり前です。そう言えば一昨年末の衆議院議員総選挙が行われるために、解散証書が読み上げらる途中に一部自民党議員が、『万歳!』した場面がありました。このとき当時の伊吹文明衆議院議長は、議員に『注意』しました。バンザイは、この場でするものではないーー議長の読み上げを終わったら、どうぞお好きなようにーーと言うわけです。私は、2012年問題と言われるごとく、政権奪還後、巨大与党一強多弱の時代になって、与党議員は、何をおいても総理総裁に右に倣え、その一挙一動を注意深く観察して、常にこのご意向にそう対応をすることに、全力を注いでいるように思います。


これはたぶんに小選挙区制も影響しているとは思います。ハナから自分たちの責務、国会と内閣の関係なんて、理解する気はありませんね。

国会を自らの政府のパフォーマンスの場とする行政府の長、国会も、国民も舐めれたものですね。ある野党の重鎮が言っていました。『この政府の姿勢と、これが国民に受け入れられるとすれば、国民と日本社会の異常性を感じた』と。

続けて、あのようなことは、これまで日本の議会では見られなかった。北朝鮮か中国共産党大会みたいな感じだとも所感を述べています。

この野党の重鎮、北朝鮮や中国を批判してるのではありません。北朝鮮は、北朝鮮なりの共和国体制であり、中国共産党大会は、いわば党大会であつて、身内で拍手したからどうってことないでしょう。


実際自民党大会でも、拍手や全員起立はありますから。要するに、それが国民の代表機関から出席を求められ、国権の最高機関の場に登壇して、国民に対する所信表明演説をする際に行うべきものか、また、国会議員は、全国民の代表なのでり、自分の組織のボスに忠誠を誓うために、この場に居て、議員歳費を受けるのではないということであります。本当に情けないです。

件の野党党首の言うとおり『不安』です。

 

誰でも、無料で、国宝と指定された建造物の中で、勤行に参加できる場所のご案内です。

2016年9月29日
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今日も、西本願寺のお話です。

 

西本願寺には、いくつ国宝があるのでしょうか?建造物だけでも7つ国宝に指定されています。中高の教科書でも、桃山時代の遺構とされる唐門や飛雲閣は、掲載さていたでしょう。唐門、飛雲閣、書院(対面所・白書院と言われる場所)、北能舞台、黒書院及び伝廊に加え、一昨年より阿弥陀堂と御影堂が、国宝に加わりました。

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建造物以外の宝物としては、開祖親鸞聖人が活動した鎌倉時代の作とされる観無量寿経註や阿弥陀経註等があることも、知られていると思いますが、なんと平安時代作とされる宝物も残されているのです。私は、宝物のうち、幾つ国宝があるのか、正確にはわかりません。 以前お話ししたと思いますが、国宝のうちいくつかは、誰でもいつでも、開門時間内ならば拝観することができます。と言うよりも、阿弥陀堂と御影堂、これは西本願寺境内に入ると誰でも上がると思うのですが、タダで解放されているのです。唐門も常時見れますし、飛雲閣等も、予約すれば拝観可能です。

 

 

なぜ予約が必要かと言えば、西本願寺の関係者が、拝観希望者に付き添って、案内するからです。ちなみに、お東さん、東本願寺の建造物は、明治以降の建築だそうです。浄土真宗の寺院では、原則阿弥陀堂と御影堂が設けられております。西本願寺に入ると、本堂にあたる阿弥陀堂、そして親鸞聖人の木像があって、浄土真宗本願寺派の重要行事が行われる御影堂は、回廊で繋がっています。さて、境内に入った途端、そのスケールの大きさに、驚くかと存じます。 阿弥陀堂は、江戸時代の1760年に再興された状態で、ほぼ保存されています。中央に阿弥陀如来像を安置し、左右になにか仏様のような像、そしてなぜか聖徳太子とされる像があるのです。

 

これが浄土真宗の本堂で、西本願寺の阿弥陀堂は、東西および南北に、いずれも40m以上の長さがあり、高さも25mあると案内されていました。ちなみに、浄土真宗のご仏壇には、中央に立位された阿弥陀如来像があり、左右には、親鸞聖人と蓮如上人が描かれております。 阿弥陀堂と回廊で繋がるのが御影堂です。こちらは1636年の再建で、東西48m、南北62m、高さ29mで、阿弥陀堂より一回り大きいです。

 

 

その名のとおり親鸞聖人の木像が真ん中におわして、左右には、本願寺歴代の門主の御影が安置されています。西本願寺の行事は、この御影堂です行われます。畳441枚の広さで、1.200名が、一時に参拝できる広さです。そして、私が西本願寺に参拝した時刻、ちょうど日没勤行が行われておりました。当然誰でも、無料で参加できます。これが浄土真宗本願寺派の素晴らしいところだと思っております。 西本願寺の開門は午前5時30分、誰でも境内に入れます。午前6時から、晨朝勤行が行われます。要は、朝のお勤めで、阿弥陀堂で、そして御影堂で続けて行われます。御影堂でそのまま布教すなわち、仏様に関するお講話があります。その後昼間の時間帯には、いくつか行事があり、午後4時から行われる日没勤行が、最後のお勤めとなります。

 

そして閉門は、午後5時30分です。 私が『参加』した日没勤行もまた誰でも、無料で参加できるので、観光客の皆さんも、珍しそうに、また、「ラッキー」って感じで、参加?していました。これも阿弥陀堂と御影堂で行われます。真面目な門徒ではない私は、 「ナモアミダブツ」くらいしか唱えられませんが、お寿寿を用意したご門徒さんが、多く参加されています。

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日没勤行とは、例の10年におよぶ石山戦争のとき、矢弾の中、お勤めを欠かさず続けられたのが、『日没勤行』になったそうです。このお勤めが終わると、お堂の正面は閉めれます。 最近ご葬儀を行われた方が仰っていました。そのご家庭は、無宗派で、仏様もお墓もなく、ご葬儀に関して、葬儀屋さんにその方式等を相談したところ、浄土真宗を勧めれたそうです。

 

その理由は、面倒がなく、緩くて簡単だから……だそうです。確かにそうですね。浄土真宗の教えは、亡くなった瞬間に、誰でも阿弥陀如来の本願力により仏様になられ、極楽浄土で暮らすことが約束されています。

 

そして残された者は、喪に服することも、霊を慰める必要もなく、返って御仏になられた方が、俗世界の凡夫である私たちをお救いになると言う教えであります。私は、他を排除しない、相対主義であり、誰でもどうぞの浄土真宗は、人に優しい宗派だと思います。これからも西本願寺に詣でて、優しいを学びたいと思っています。

大阪京都と東京、東本願寺と西本願寺。実は仲が悪いのではありません。

2016年9月28日
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今日は少し浄土真宗のお話をさせていただきます。

 

開祖親鸞聖人、そして中興の祖第8代蓮如上人のころは、浄土真宗はひとつでした。

 

親鸞聖人が1262年に90歳で没したのは、現在の京都市中京区の押小路と言う場所ですが、現在の京都東山にある『鳥野辺』なる場所で荼毘に付され、近くの『大谷』に墓所を設けたそうです。数年後親鸞聖人の末娘覚信尼により、この地に『大谷御廟』が建立、1272年ころより、この地が『本願寺』と称されるようになったと言うことです。

 

親鸞聖人の御影像を移すなどし、現在の西本願寺に残る御影堂、阿弥陀堂の元となるお堂もできました。しかしその後比叡山からの圧力等もあり、また、各地に分派した勢力内の争いもあって、本願寺は、やや廃れた感となったようです。そして1465年第8代蓮如の時代に、本願寺は、比叡山延暦寺により破壊され、蓮如は近江国に逃れ、その後北陸方面で布教を行い、蓮如上人は、浄土真宗の中興の祖と言われたのです。 やがてときは戦国時代、第11代の顕如までは、その教えから、巨大集団となった浄土真宗は、ときの権力者から、敵視されることになります。

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すなわち人々には上下はなく、支配し押さえつけられることはない、常に阿弥陀如来により極楽浄土で生きることが保証されているとの教えは、力で支配を強める戦国武士団には相容れず、権力者からの解放と言う精神的支柱になっていったからです。関東の北条氏、薩摩の島津氏等長きにわたって領内での真宗は禁教とされ、徳川家康に至っては、若いころから浄土真宗を禁止していたと言われます。悪人正機説や即応成仏の思想は、戦国大名には馴染まなかったのでしょう。

そんな中で、越後の上杉謙信や越前の朝倉義景は、浄土真宗の理解者とされていて、また、中国地方を治めた毛利氏も、浄土真宗とはむしろ手を結ぶような政策を取っておりました。そんなところから、稀代の天才かつ狂人?革命児織田信長は、徹底的に浄土真宗を嫌い、10年におよぶいわゆる『石山合戦』が繰り広げられるのでした。 蓮如上人は、第9代宗主、現在の浄土真宗では門主と言われる教団トップを五男実如に譲り、自らは、大坂石山に隠居所を設けました。大阪御坊と言われる大阪の地に、これが契機に本願寺は移りました。

こうして『石山本願寺』が出来上がったたのです。石山本願寺の前には、町が広がり、寄進もあって、石山本願寺は、相当広い堅固な牙城のごときシンボルとなっていたとされます。これを自分よりも強い、巨大な存在を、信長が許すはずがありません。また、大阪は、西国への入口、毛利水軍と親交がある石山本願寺は、信長にとっては許すべからざる存在でありました。ただ本願寺は、武装集団ではありません。ここに信仰のために集まる者に対して、自分こそ神と信じている信長をしても、一気に攻め込むことはせず、石山本願寺の明け渡し、他所への移転を求めていたのです。

 

最終的には、調停の仲介もあって第11代顕如は、1580年に石山本願寺を明け渡して、紀州の地に本願寺を移す和解を織田信長との間で取り交わしました。これが石山本願寺10年戦争と言われるものです。 ところで、顕如は12代となる長男教如とともに徹底抗戦を唱えておりましたが、やがて信長との和睦に傾いたところから信長を徹底的に嫌う長男教如らは、やはり徹底的に交戦する意思を固め、必ずしも徹底的に抗戦する意思を強め、宗主の顕如の判断に納得していたのではないとされます。

 

それで信長との和解により顕如が石山本願寺を去った後も教如ら一部強硬派は居残り籠城、顕如は教如を義絶しました。これが本願寺が『東本願寺』と『西本願寺』に分かれた遠因とされます。

結局教如も、京都の公家らの説得を受けて数ヶ月後に石山本願寺を退去します。しかし退去のその日、石山本願寺は火に包まれ炎上、この巨大な建造物は消失したのです。そしてその1年少し経った日に、本能寺の変が起こりました。それを契機に朝廷の取りなしで、顕如と教如は和解し、ともに寺務を行うことになりました。

そして翌年石山本願寺の跡地に豊臣秀吉により、大阪城が築造されたのでした。
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石山本願寺そのものは無くなりましたが、秀吉の時代になり、本願寺は活動の再開ができました。石山本願寺の跡地に秀吉が大阪城を築造したことが影響しているのかどうかわかりませんが、本願寺は、大阪の地に復活、最初は元石山本願寺の末寺で布教していたものの、数年後には秀吉の寺社寄進により、現在の大阪市天満に阿弥陀堂と御影堂が設けられ、ついで1592年、天下統一した豊臣秀吉により、京都の地に本願寺は寄進を受けました。

これが現在の『西本願寺』の場所であります。

本願寺の京都の移転とほぼ同時期に、信長らとあいまみれて戦国時代を生き抜いた顕如が亡くなり、教如が本願寺を承継しました。ところが、かつて教如をして強硬路線に転じさせた側近が『復権』しました。これに不安を感じた顕如の正室で、教如の母である如春尼は、顕如の遺言だとして、三男の准如を第12代にするよう豊臣秀吉に直訴したと言われます。

これを受けた秀吉は、教如を大阪城に呼び、穏健に勤め、10年後には弟にあたる准如に宗主を譲るよう申し渡しました。しかし、教如の側近が反発したことから、教如は秀吉により排斥されました。准如が第12代となり、教如は、本願寺の端っこの場所で『裏方さん』として、布教活動を行う日々になったと言うことです。

失礼を承知で申しますと、ある意味、豊臣秀吉により宗主となった准如は、かつて教如を支持した一部僧侶門徒からは、秀吉に降参したものとみなされ、もともと存在しないではなか った本願寺の内部分裂が、加速する気配が漂いました。もっとも、教義が異なるわけではなく、ともに親鸞聖人蓮如上人らの教えを広めることには変わりはありません。

ですから本願寺内部、浄土真宗が分裂することはありません。しかしこれに目をつけたのは、徳川家康でした。西本願寺にある国宝飛雲閣は、秀吉が贅を凝らした聚楽第の遺構とも言われるのは、准如との関係があったからだと言われます。

秀吉の死後、もともと西国の信者が多い浄土真宗でしたから、関ヶ原の戦いでは、西国武将が多く含まれていた西軍に味方したように、家康には映りました。家康は、教如を本願寺の宗主にしようとしたところ、側近の本多正信は、既に信長のころから本願寺は、准如を中心とする表派と、教如を中心とする裏方に分かれているから、教如を徳川幕府が推して、本願寺を一本化する必要はない、むしろ『分裂』を加速させるべく、准如らの関ヶ原の戦いの責任を取らせない代わりに、反対に、教如には土地を与えて浄土真宗を布教させるかたちを取らせ、浄土真宗本願寺の力を弱めた方が良いと意見したと言われます。

それで教如は、堀川七条の本願寺の端っこにあった隠居所から、本願寺から少し離れた六条烏丸に移り、ここに本拠を置き、翌年親鸞聖人の木造を迎え、『本願寺』を称することになりました。すなわち、准如を12世宗世とする本願寺教団と、教如を12代宗主とする本願寺教団の2つができました。秀吉の寄進により建築された本願寺の東側に、もうひとつ本願寺ができました。

それで教如を宗主とする本願寺を『東本願寺』と言うようになりました。これに合わせていつころからか、もともとの本願寺は、『西本願寺』と呼ばれるようになったと言うことです。東本願寺は真宗大谷派、西本願寺は、浄土真宗本願寺派となるのです。

ふたつの本願寺、どう違うの?ですが、浄土真宗本願寺派の門徒である私も、よくわかっておりません。本願寺派は焼香は1回、南無阿弥陀はナモアミダブツと唱えることくらいでしょうか。世間では、本願寺派=穏健派、大谷派=武闘派、あるいは
ハト派とタカ派に例えられることもありますが、浄土真宗内部では、そのような意識はないでしょう。西本願寺が、尊皇攘夷運動を応援していたと言われるのは公然の秘密?ですが、東本願寺も幕末時には、倒幕派と気脈を通じていました。

ちなみに、かつての長州、山口県の浄土真宗の門徒は、100%本願寺派と聞きました。反対に、関東には浄土真宗本願寺派は少ないのは、徳川幕府の影響だと言われます。1617年本願寺の別院として、本願寺派の寺院が、江戸浅草にできました。明暦の大火で消失後は、江戸幕府は建築を許さずしません。そこで門徒たちが集まって、海を埋め立てて築造されたのが築地本願寺でした。築地とは、浄土真宗の門徒たちが土地を作ったことから名がつきました。

今、臨海副都心の埋め立てが東京では流行っています。最近では、豊洲市場の移転に関して、都民の間でようやく問題点が露にされたようです。徳川幕府、冷淡に扱った浄土真宗本願寺派が、まさか海の上に寺院を作るなんて想像していなかったのかもしれません。東京都庁も、まさかあんなところに埋め立てしたことで、都民から糾弾されるとは思っていなかったのかもしれません。バレないだろうと。

真宗の信者たちは、阿弥陀如来に手を合わせると、自分は何もしなくても、本願力により救われると思っています。でも、都民のために仕事をすべき都知事をはじめとする都庁の皆さんは、何もしなくても、また、何をやっても救われないことはないとでも思っていたのでしょうか。必死にやることで、神仏は、思し召しをくださるのだと思います。

京都から帰ってテレビを見ての感想でした。もっと本願寺を勉強したいです。

 

『お客様は神様です』と教えられることは、お客様に現場で対応する者のストレスになることを、理解する必要があります。

2016年9月27日
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以前この『ひとりごと』でも書きましたが、電車内にベビーカーを広げて乗車することの可否が、また議論されていました。迷惑行為のひとつとして取り上げられるのだと思います。結論としては、国土交通省や鉄道の団体からは、乗車OKとされているので『ダメだ』は間違いとなります。

しかし問題なのは、乗り方と言うか、ベビーカー利用者のマナー、常識?だと思われます。危険な乗降をする、連れ立ってワーワー騒ぐ、お菓子を食べさせるなどしてゴミを落とす、堂々と他の乗客の妨げとなる位置にベビーカーを広げる、ぶつけても謝らない等等でしょう。

でも良い風景も目にします。乗降の折、他の乗客が手助けするところ、車内でお母さんが、子どもに優しく車内マナー?を教えるところなどです。要するに、公共交通機関を利用する人の心の持ち方でしょう。

乗客のマナーを言うなら、ときに駅や車内で声を荒げて言い合う姿は、感じ悪いですね。特に酔っ払いが多いらしいですが、駅員にクレームをつける、果ては暴力を振るう事例が増加傾向にあるそうです。駅員さんも、お気の毒と思います。お客様って、なんでしょうかね。お金を払っているから偉いと勘違いしているのでしょうか。

飲食店でも、横柄な態度の客いますね。鉄道会社も飲食店も、お金を受けて、サービスを提供しているのです。法律上は、双務契約と言い、代金とサービスが均衡を保つ関係です。確かに鉄道会社は、目的地までお連れすること、飲食店は、安全確実に料理を召し上がっていただくことまでサービスに含まれているのでしょう。しかし、サービスを提供する側の責任ではないところで、目的が果たせなくなることもあるのです。

関西方面の鉄道会社が運行する電車に乗務していた20代の車掌が、電車が駅に停車して、乗客とのやりとりの最中、突然制服制帽を脱ぎ捨てて線路に降り、高架線の線路からその後数メートル下に飛び降りて重傷を負った『事件』が報じられました。なんでもこの車掌が乗務した電車は、数駅先を通過していた電車に人が飛び込んだために、路線は運転見合わせとなって、しばらく駅に停車していたようです。

すると人身事故のためにしばらく駅に停車したままとなった電車の乗客から、この車掌さんはあれこれ言われたらしく、その直後、先の行動に至ったとされています。事実関係は、よくわからないところがありますが、ある報道では、『車掌、逆ギレ』と書かれていました。

『逆ギレ』なる言葉は、ある現象から生まれた造語でしょう。被害者と加害者がいて、迷惑を被った被害者が、加害者に対して怒りや抗議の姿勢を示したとき、自分が批判されていることに耐えられない加害者が、逆に被害者に対して、開き直り的に怒りの態度を示して刃向かう現象を指すと言われます。

つまり、被害者と加害者が、明確になっている前提があるのです。

この車掌さんが勤務する鉄道会社の電車が、運転見合わせとなったことについては、確かに定時に目的地に到着できない点で、乗客は、被害者と言えるかもしれません。しかし、人身事故自体は、鉄道会社に落ち度があったと言うべきでしょうか。民法では、自己の責に帰すべき事由により、他人に損害を与えた場合に『不法行為』とされます。

少なくとも、この車掌さんは、乗客との関係で、『加害者』に位置づけられるとは思えません。ネット上の多くの意見は、むしろ不可抗力に近い事情により電車は停車しているのであり、乗客が車掌を取り囲んで文句を言うことがおかしい、無理難題を吹きかけられてひたすら平身低頭していたとすると、それに罵声を浴びせたり、怒鳴りつけるほうが『加害者』だと言うものです。

少なくとも『逆ギレ』は、ないだろうです。

鉄道会社に勤務した人は、基本的に鉄道が好きなのだと思います。大好きだったはずの電車の乗務を放棄して、鉄道マンのシンボルでもあったはずの制服制帽を脱ぎ捨てて線路から飛び降りるとは、よほどの精神状態に追い込まれていたのでしょう。公共交通機関の職場にある者として、職場放棄の上、さらに鉄道ダイヤに影響するような仕儀に至ったことは、いち鉄道ファンとしては残念な気持ちです。

しかし、あくまで報道やツイッターからの情報の域を超えませんが、この車掌さんを追い詰めた原因ってなんだうと思わざるを得ません。乗客だってまさか人身事故でダイヤが乱れるとは予想せず、予定を組んでいたでしょう。でも、この車掌さんを問い詰めて、まして文句を言い、さらに早く運行させろ!と騒いだところで、電車が動いて『問題』が解決するものではないでしょうに。何かの腹いせに、お客様は神様であって、運転見合わせに関しては平身低頭するしかない鉄道会社側に当り散らしているだけにしか映りません。反論できない、してはならない人に対する攻撃は、私が特に嫌いなやり方です。

先に申しましたように、運行契約は、双務契約です。片方のみが神様ではありません。もちろん金を支払う前提として、定時に目的地まで運んでくれることがあるわけですが、運行会社に責任がなく目的が達せられない場合にまで、まして、その会社の一従業員に過ぎない車掌さんを吊るし上げて何になるんでしょう。

人身事故も、まして運転見合わせも、この従業員の判断責任ではないはずです。私は追い詰めた乗客の行動に、納得致しかねます。もし、この車掌さんが不条理に対して反論?でもしたならば、さらに大騒ぎになったいたようにも思います。

私がその場に居合わせたら、おそらく車掌さんに文句を言い続ける人たちの姿に、不快感を持ったと思います。乗客のマナーってなんでしょう。公共交通機関の使命はあるでしょうが、これを利用する人のマナーもあるでしょう。

ベビーカーだけの問題ではないと思います。最近車内マナーが気になるおじさんのひとりごとでした。問題の『事件』を起こした車掌さんの回復と、職場復帰を願っています。

 

『ハマの番長』こと、横浜DeNAベイスターズ三浦大輔選手の現役引退報道に寄せて。

2016年9月26日
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秋にもなると、春先から行われていたプロスポーツも、終盤を迎えます。プロ野球のペナントレースも、先日セ・リーグでは、圧倒的強さで広島カープの優勝が決まりました。

 

また、12球団中唯一クライマックスシリーズに、出場した経験がなかった横浜DeNAベイスターズが、シーズン3位以上を確定させ、これに初めて出場することが決まっております。いっぽうパ・リーグのほうは、北海道日本ハムファイターズが、優勝マジックを点灯させました。

 

こちらは、2位の福岡ソフトバンクホークスとは1ゲーム差であり、最後までペナントの行方はわからない状況です。 シーズンも終盤になると、この年限りで引退を表明する選手が現れます。既に横浜の三浦大輔選手、日本ハムの武田勝選手、阪神タイガースの福原忍選手らが引退表明しました。シーズンが終われば、次々と引退を決意する選手が出てくるでしょう。引退と言っても、自分はやり遂げたと納得して、ユニフォームを脱ぐ選手もいれば、いわゆる戦力外となって、契約更新が認められず、かと言って、他の球団からの誘い、契約締結に至ることがなくて、不本意ながらこの世界を去る形での『引退』をされる選手もおられるのです。

 

プロの世界は厳しいと思わせる瞬間です。 子どものころから成人するまで大田区に住んでいて、また、一 時期川崎市にも住んだことのある私は、元大洋ホエールズのファンでした。大洋が、日本シリーズに初出場して、4戦全勝して日本一になった昭和35年のことは、記憶にありません。子どもから大人になる過程で、大洋ファンと言うよりも、ある球団が大嫌いになりました。よく言われるアンチ○○であって、このチームが負けると、気分が良かった時期が続きました。

 

その後大洋球団が、本拠地を横浜に移したころから、ホエールズ、後のベイスターズにはあまり関心がなくなり、平成10年の2度目の日本一のときも、それほど感動したものではなかったのでした。また、アンチ○○のほうも、このチームが常勝軍団ではなくなり、また、いろいろ野球外でくだらない話題が出てくるようになって、もう敗けろ!と強がる必要はなくなりました。 ですから、私は、あまり野球には関心はないのです。ただ横浜地方裁判所に行き来するときに乗り降りする『日本大通駅』には、横浜スタジアムの最寄駅と言うこともあり、ベイスターズの選手のポスターが、あちらこちらに張り出されていることには、いくらか気になってはおりました。

 

やはりベイスターズが勝つと良いなとは思えるのです。よく種を蒔き、耕し、実りをつけると言われます。今年のカープは、ブラウンーー野村ーー緒方の各監督が、長い目線でひとつづつ丁寧に選手を育て、チームをまとめ上げたと評価されます。ベイスターズも球団オーナーが代わり、高田GM、中畑清監督になり、今年承継したラミレス監督により、丁寧に育ててきた成果が、少しづつ現れてきたのだと思います。

 

それと球界最年長、『ハマの番長』こと三浦大輔選手兼任コーチの存在が大きかったと思うのです。 三浦大輔選手は、若いころからリーゼントヘアで、番長らしい風貌だったわけですが、横浜一筋25年、ベテランから神の域に 達してもなお、黙々と練習する姿は、若手ならずとも感銘を受けるものです。『番長』とは、こと三浦選手に限っては、強面のツッパリではなく、自ら率先してなんでもやる、いくつとなっても追い求める諦めない代表のような尊敬の念を持って多くの人から称えられているのだと思います。大洋ホエールズを知り、また20年前の日本シリーズ優勝を経験したただひとりであり、記録よりも記憶に残る選手でした。

 

それでも最優秀防御率や最多奪三振を獲得し、プロ野球の投手としては、24年連続安打を放ったと言う世界新記録を更新してギネス登録されたことは記憶に新しいです。無四球完投勝利16回は、もちろん現役最長で、39歳で獲得したシーズン最多完投数も、もちろん最年長記録です。年輪を重ねても衰えを知らない三浦大輔選手、ただ凄いとしか言い表せません。

 

リーゼントで現れた先日の引退会見も、三浦選手らしかったですね。引退を決意したのは「勝てなくなったから」。誠に失礼ながら、ベイスターズに在籍していなかったら、200勝は当然のこと、未だ未だ勝てたでしょう。もっとも、ベイスターズ一筋故に長く続けられ、達成できた部分もあるのかもしれません。珍?記録としては、開幕投手7連続敗戦という日本記録もお持ちなのです。そんな三浦選手を小学生時代から知る元阪神タイガースの岡田彰布監督から、FA宣言をした三浦選手に対して、当時の横浜ベイスターズを遥かに超える破格の条件で熱烈ラブコールを受けたときにも、三浦選手は、「番長行かないで」「三浦!三浦!」コールに感動して、横浜残留を決めたとされます。

 

ここ数年は、コーチ兼任選手として、いつも1軍に帯同しつつも、自身は2軍暮らしが多く、そんな時でも三浦選手が出場していない横浜スタジアムに、『18番』のユニフォームレプリカを身につけたファンの姿を見て、絶対に1軍で投げる、勝つのだとの信念で続けてきたと目を潤ませて述懐されていたのが印象的でした。奈良県橿原市出身の三浦選手、いつになっても『関東言葉』にならないところがまた凄いです。

 

これはお叱りを受けることを承知で申しますが、私は、『関西弁』では、三浦大輔氏のそれだけが、きれいに受け入れられました。 横浜球団は、三浦大輔選手が付けていた背番号18は、『横浜ナンバー』として、プレー、振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき選手が付ける番号と指定しました。これは、事実上の永久欠番の扱いです。その三浦大輔選手、今年の横浜DeNAベイスターズの公式戦最終戦がある9月29日、現役最後の1軍登板が予告されています。

 

この試合で、24年連続1軍登板での勝利と言うNPB日本野球機構の新記録を樹立できるかどうかも焦点ですが、選手全員が、18番を入れたユニフォームで登場することが発表されています。

 

 

選手球団ファン、それぞれのハマの番長への愛惜と感謝の気持ちでしょう。三浦大輔選手、ありがとうございました。これからの御活躍ご健勝を期待しております。