5月4日に生まれた英王室ウィリアム王子とキャサリン王妃の第二子となる王は、『シャーロット•エリザベス•ダイアナ』と命名されたことが伝えられました。
今後シャーロット王女と呼ばれるそうです。『シャーロット』とは、王女の祖父で、皇位継承順位1位の祖父チャールズ皇太子の『チャールズ』の女性名に当たるのだそうです。
エリザベスとは、在位63年を超え、英国皇室史上最長年齢を更新される曽祖母エリザベス2世に、そしてダイアナは、ウィリアム王子の母、亡きダイアナ元王妃に敬意を払ってとった命名と報じられました。
私の世代以降の方々は、ダイアナ妃を忘れないでしょう。
パパラッチに追いかけられないように……。とシャーロット王女誕生のお祝いを述べた英国国民の姿が報じられましたが、死してなお、元王妃の人気と人々の愛惜の念に思い至ったものでした。ちなみに、私自身、皇太子徳仁殿下と雅子妃との婚姻パレードに馳せ参じたおバカさんであります。
ところで、野生のニホンザルの餌付けで知られる大分市にある高崎山自然動物園で、6日に生まれたばかりの雌の赤ちゃん猿の名を、『シャーロット』と名付けたと発表したところ、抗議が殺到して取り消しを検討する事態となった由であります。
なんでも、この動物園は、猿の名は公募するところ、例えば、ソチオリンピック時に誕生した赤ちゃんには、『ソチ』と命名したように、市民の意思を反映してきたと言います。事実シャーロット王女誕生後、サルの名をシャーロットとするとの投票数は、増えたというのです。
しかし、王女の名をサルに付けるなど英国に失礼、もし、日本の王室のお子様の名を、英国動物園て、飼育されるニホンザルに付けられたらどんな気がするのだと、怒り心頭の声声声だそうです。
私も、これを聞いた直感として、それはないだろうとは思いました。
ただし、高崎山のこれまでの歴史から見ても、また、公募の在り方からみても、投票した市民の方々には、悪ふざけなんてなかったことは明らかだと思います。
むしろ、大分市民?は、シャーロット王女の誕生を祝い、自分たちが愛する高崎山のサルを忘れないように、英国王室のシャーロット王女を、いつまでも忘れることなく、敬意を評する意思と受け取りたいものです。
これは難しいですね。
バンドン会議後、インドから贈られたゾウは、花子と名付けられました。
この花子は、友好のシンボルでもあり、また、長寿だったこともあり、世の中の『花子さん』は、たいそう喜ばれたと聞きます。
ゾウは良いがサルはダメという基準はないでしょう。
明治維新後の急速な近代国家化を恐れた?西洋列強は、日本人を『サル』に例えてバカにしたと聞きます。
人間は、猿から進化したとも言われます。猿と人間の関係は、歴史を超えて難しい問題があるようです。
GoogleMAPに、誰かが事実と異なる書き込みをしたとして、話題になっています。
そんな場所には、そんな施設など存在しないにも関わらず、サティアン、⚪️⚪️教、⚪️実験場等の表記をして、悪ふざけが過ぎるのではないかと批判されています。
地理には明るい私は、地図を頼りに場所を探すことはほとんどありません。
しかし、携帯やスマホの機能に頼って行き当てる方は、そんなおかしな表記が出ていたら、迷うことはあるでしょう。
私はGoogleMAPは、誰でも書き込みできるとは知りませんでした。
サービスはサービスなのでしょうが、誤りがあったとしても、誰が責任を取ると言うものではなさそうです。
GoogleやYahooでは、『サジェスト機能』が問題にされることがあります。
これは、検索サイトに文字を入力すると、その文字に続く候補が自動的に表示されることを意味します。
サジェストとは示唆する、想像させる意味だそうで、余計な手間を省くサービスとされています。
でも、これは余計なお世話、あらぬ被害?を引き起こす可能性を指摘されます。
例えば、ある企業を入力すると『⚪️⚪️ブラック』となったり、ある人物に入力すると、『⚪️⚪️痴漢』の類す。
実際被害を受けた方が削除を求めて訴訟を提しても、サイト側は、なんら作為を入れることなく自動的に表示される、その文字に続けてそのような用語が表記されるのだとすると、社会世間の関心に沿うものであり、民主主義を支える表現の自由の観点から、削除は正しくないと主張されるのです。
確かに、削除するかどうかは、サイト側の自主性に期待すべきだとは思います。
しかし、いかに自動的、運営側の恣意はないと言っても、巻き込まれた側は、たまったものではありません。
私もある依頼者が、第三者から点数を付けられて評判を競われるあるサイトに勝手に掲載されていたことで、法的対処をしたことがあります。
このところ問題にされるグルメサイトなどとは異なり、掲載自知らなかったわけで、もちろん費用を支払ったわけではありません。
ある意味、タダで掲載されて知れ渡るのだから良いのでは?の意見もあるのかもしれませんが、放っておいて欲しい人はいるのです。
これは運営側、サイト側 は、掲載された側ではない側から、広告費宣伝費を受け取られなければ、業務は成り立ちません。私からすると?
?どこかはともかく、お金を受け取って事業が成り立っているのであれば、『自動的』云々で全く責任は負わないは、何か違うのではと言わざるを得ないところです。
もっとも、あまり煩く噛み付くと、やがて『福本悟クレーマー』とか、『きさらぎ法律事務所0点』なんてサジェストされるかもしれませんね。
だからと言って、ここで発言?を抑えたら、表現の自由が萎縮してしまいます。皆さんは、どのようにお考えでしょうか?
元ナチスの親衛隊員の公判が、第二次世界大戦で、ドイツが連合国に降伏して70年となる今年も、ドイツ北部で行われました。
被告人となった今年93歳になった男性は、アウシュビッツ強制収容所で、1944年5月から2ヶ月間で30万人のユダヤ人の殺害に関与した殺人幇助の罪で起訴され、起訴事実を全面的に認め、遺族らに対して「どうか許してください」と述べたと伝えられています。
ご承知のとおり、ドイツは、未だナチスの戦犯の捜査を続けており、先に来日したメルケル首相が言われたとおり、ドイツが近隣諸国から許してもらえ、国際社会に復帰できたのは、ドイツは過去を忘れず、謝罪を続けたからだとされるのです。
いっぽうで、ときを同じくしてインドネシアのジャカルタで開催されたアジアアフリカ会議(バンドン会議)60周年記念式典に参加した日本の安倍晋三内閣総理大臣は、10年前の50周年記念式典に出席した当時の小泉純一首相が述べた植民地支配と侵略が、アジア諸国の人々に、多大な損害と苦痛を与えたとする「痛切なる反省と心からのお詫び」には、言及しなかったようです。
謝罪とは、他から言われて行うものではありません。
また、いちど謝った者に対して、何度も謝る必要があるのか?とも考えられます。
ただ、アジア諸国の記念の日を前にして、『日本は、先の大戦の深い反省と共に、いかなるときでも、他国の領土保全や政治的独立を侵さないと言う60年前、バンドンで確認された原則を守り抜く国であることを誓う』と言ったところで、何か当事者意識が感じられないと思うのはなぜでしょう。
これは当たり前のこと、現在誰もが異論ないことを、被害に遭われた当事国に向かって述べるのは、どんなふうに受け取られるでしょうか?
先日あるテレビ番組に出演されたときの発言からしても、どうにも安倍首相は、謝るのが何か反対に悪いことかに思われているのでは?とさえ思ってしまいます。
これが中国韓国と、互い意地の張り合いをしているように見え、大人気ないなと思うのは私だけなのでしょうか?
きさらぎ法律事務所では、事務所内での初回相談は、無料です。
相談時間の制限はありません。その理由は、ホームページにご案内しております。それと、電話メールのみでのこ相談は、受付しておりません。
ホームページをご覧いただいて、きさらぎ法律事務所のシステムに賛同していただき、有難く存じます。
ですが、ごくたまに、特に遠方の方より、どうしても電話で対応して欲しい、費用を負担しても良いとお申し出を受けることがございます。
しかしながら、これはお受けいたしておりません。もちろん、出張相談はお受けします。
事務所にお越しいただいて、お話をお聞きするときにも、しばしば思うのは、ご相談者は、ご自分が、そのときいちばん知りたい、期待する答えが欲しいのです。
それがご相談者にとって本当に意味のあることなのか、それで解決になるかは、私からいたしますと、Noのケースがほとんどです。
また、よく電話で言われるのは、急いでいる!です。これまた、ご相談者の受け取り方であって、私からいたしますと、そうではない、むしろ急いで何かをするものではないケースがほとんどです。
例えば、いついつまでに回答しなければならないとか、これこれをしなければならないのか?と言うケースは実に多いです。
この回答期限なるものは、相手方の都合で設定されているもので、そんなもの守らなくても何てことはありません。
そもそも、相手方が期待する回答をするおつもりなら、わざわざ相談する必要はないのであり、どちらにしても、相手方の希望通りにならないわけです。わざわざ『期限』を守ってNo回答をしたところで、相手は喜ぶはずはなく、問題の解決にはなり得ないでしょう。
また、仮に電話等で、ご質問に関する回答を得て、そのとおり対したからと言って、問題は解決するのでしょうか?例えば、話し合いに応じる義務があるのか、調停に出席しなければならないのか?
ご相談者は、嫌なのでしょう。嫌なことをする義務はありません。
30分無料相談でしたら、「調停に出る義務はない。嫌なら調停は不成立になるだけで、何も決まらない、義務付られない」と回答されるでしょう。
もちろん、それ自体は、誤りではありません。
しかし、それで問題は解決したのでしょうか?相手方は、諦めたのでしょうか。また、ご相談者の希望は叶えられ、もはや一切の不安は解消されたのでしょうか?私は、相手方からこう言われた、どう対応すれば良いかではないはずですと、しばしば申し上げます。
ご相談者自身、何をしたいのか、どうすべきだと思っているのか考えましょうと申し上げます。
相手の手の平に乗って、物事を考えてはならないと言うことであります。
これは、実社会でまさしく当てはまる事柄であります。
例えば、「他に代替するエネルギーが見当たらないから原発は必要だ」と言われます。この場合、「他に代替するエネルギーがないから」と言っているのは、相手方の主張に過ぎません。
論点は、原発がYesかNoのどちらかなのです。「危険な普天間基地の移転先は、辺野古沖しかない」は、もう繰り返し言われていることです。
普天間基地が危険で、基地返還を要することは誰も異論ありません。
問題は、誰が、なぜ、辺野古沖だと言っているのかの原点に立って、それなら何処かに移転しなければならないのか、その場所は、日本国民沖縄県民にとって何処が相応しいのかの観点から、論じられなければならないと言うことなのです。
要するに、相手が言ったことの範囲で、検討対応するのではなく、自主的に、自分は、本当はどうしたいのか、政治の世界で言えば、国富とは何かを考えていただきたいに尽きるのです。
先日、新千歳空港に最終の着陸態勢、すなわち、ファイナルアプローチに入ったJAL機が、GOアラウンド、すなわち、着陸のやり直しをしたことが報じられていました。
この便の機長によれば、管制官からは、着陸許可を得ていたが、先に着陸した他機が、まだ誘導路まで達していなくて、滑走路内に留まっている状況が目視できたので、安全のため、GOアラウンドしたと言うものです。
最近日本国内では、滑走路内に障害物?があって、接地しながらもGOアラウンドしたケースや、視界不良で、GOアラウンドすべきだったのに、着陸を強行?してあわや大惨事のケースがあったことから、このJAL機のコックピットは、念には念を入れ、安全には際限がない姿勢があったのでしょう。
まさにプロですね。
時期が時期だけに、ニュースになったのでしょう。 GOアラウンド、着陸復航は、意外となされていると思っています。
私が『落ち着く場所が指定席』と表現した福岡空港の飲食店で一杯やっていたときに、まさにその場面を目撃したことがあります。
ご承知のとおり福岡空港は、滑走路が1本で、世界一離発着の間隔が短い空港です。
まだ離陸のため滑走路に航空機が停止しているときに、着陸のため、かなり低空まで降りてきた別の航空機が、急遽上昇したことがありました。
着陸許可が取り消されたのか、コックピットの判断だったのかわかりませんが、確かにあのまま着陸を続けたら、危なかったでしょう。
かく言う私自身も、今年の2月、JAL機に搭乗して羽田空港に着陸寸前に、GOアラウンドの経験をしました。
この日は、もともと天候の影響で、かなりの揺れが予想されますとアナウンスされておりまして、福岡空港から離陸後、ほとんど揺れが続いており、ファイナルアプローチに入った旨CAさんからアナウンスがあった際、羽田空港周辺は悪天候のため、降下に際しては大きく揺れるますと(続けて、大きく揺れましても飛行の安全には全く影響ございませんとのアナウンスが)続けられていたものです。
この日、真ん中の真ん中に座っていたので、外は全く見えませんでしたが、中々着陸しないなと思っていたら、突然背もたれに押し付けられる感じの急上昇となったので、航空機慣れしている私でも驚いたものです。
と同時に、『GOアラウンドしたな。何か機体にーー着陸できないーー異常が起きたのでは?』と思わざるを得ませんでした。
機内はざわついておりまして、CAさんも、機体が急上昇したとアナウンスし、現在調査していると言いました。
実際は、機体等に異常はなく、強風のため、コックピットの判断で、安全のため、着陸をやり直したとの機長の説明がありました。
30分遅れての到着になりましたが、安全とは、一見無駄の積み重ねと思っている私は、機長の判断に敬意を評します。 ここで学ぶべきは、『やり直す勇気』だと思います。確かに30分遅れたら文句を言われかねないでしょう。
しかし、文句を言えるのも生きている証です。
きさらぎ法律事務所で、男女問題に関わらせていただく過程で、『やり直す勇気』を持っていただいたケースはございます。
さて、辺野古沖移転問題は、どうでしょう。なんで政府与党は、辺野古沖移転が唯一絶対の政策だと言い続けるのでしょう。私は、このままでは、沖縄県民との対立が拡がり、本当に、沖縄県の独立が言われ出すかもしれないと思っています。もともと沖縄県は独立国、明治時代の廃藩置県と同じに考えることができない『琉球処分』の歴史があることを忘れてはならないと思います。