あるカップルの結婚に寄せて

2015年4月30日
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先日こんな話題が、ある報道番組で紹介されました。中国のある男性が、とても可愛らしい女の子に一目惚れしたことから、話は始まります。

この男性、魅力的な彼女には、彼のように言い寄って来る男が多いから、彼女を奪われないようにするにはどうでしたら良いか悩みました。

「そうだ!」と思い立った彼は、要は、世の男性に、とてもこんな女の子は相手にされないようにすれば良いのだ!。そうするため、彼は、この彼女を太らせる大作戦を始めたのです。

その結果、作戦は成功し、1年間で50kgも増量でき、可愛らしい彼女は90kgとなり、彼が一目惚れしたときとは全く別人になって、無事2人は結婚できたと言うものであります。

体型にかなり問題がある私からいたしますと、太ったイコールブサイクかの主張には異議がありますが、当人が満足し、ゴールインしたのですから、お目出度いことであります。なぜこんな話題を出したかって?それは、夫婦男女に関する問題に対応する際、しばしば「こんなはずではなかった」「話が違う
!」なんて聞くことがあるからです。

結婚、法律上婚姻と言いますが、婚姻の意思、これは離婚の意思でも同じですが、それは、その届け出をするときに存在しなければなりません。よく、予め書いておいた離婚届を、後になってパートナーが提出した場合、「こんなはずではなかった」として、無効が主張されることがあります。結論から言えば、法律的には無効です。婚姻も離婚も、その届け出の際に、その意思があることが要件だからです。

これと似た例?「こんなはずではなかった!」は、弁護士業務の過程でよく遭遇します。例えば、「何処何処に勤務している、どれどれ資産があると信じて結婚したけれど、実際無職無収入で借金だらけだった」「妻とはもう長年他人同然、直ぐに離婚すると言っていたのに、全然奥さんと離婚する気配がない」等等です。

さて、この答えは、先の中国のカップルにあります。この男性、妻となった女性に好意を抱いた動機は、世の男性が虜になるような彼女の可愛らしさでした。しかし、彼は、90kgになった彼女と婚姻したのです。

つまり、この男性、90kgの彼女が好きだったと言うことです。であれば当然、後になって妻が可愛いくない、デブになったから離婚なんて主張は認められません。誠にお目出度いことです。

そこで先ほどの例に戻れば、前者は、『婚姻を継続し難い重大な事由』があると言えそうです。確かに財産の有無等は、婚姻の有無を決する動機に過ぎず、「話が違う!」から婚姻は無効とはなりません。また、そんな?動機で結婚を決めることにも、いろいろな意見はありそうです。しかし、もはや婚姻生活の継続は困難でしょう。

後者はどうでしょう。

このケース、世の男性の常套文句であることは、ここでは議論しません。興味を持っていただけましたならば、きさらぎ法律事務所のホームページ『離婚男女問題』のコーナーに、A.B.C事例として、福本悟の基本的な考えが記されておりますので、ご一読ください。


ここでの問題は、ご不満な彼女、この男性に、何か請求できるのかでしょう。


これはNoですね。だって、現時点で、彼は離婚していないからです。他人の婚姻関係に、他人が、「別れろ」なんて口出しすることは許されません。

こんな事例ばかり………だけではありませんが、………目にしている私からいたしますと、冒頭の中国のカップルの幸せを願わずにはおられません。

国会議員にも、表現の自由はあると仰いましたが。

2015年4月29日
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政府与党が放送法を盾に、NHKとテレビ朝日の関係者を呼び出して『調査』をしたことは、表現の自由、国民の知る権利の観点から、見過ごすことはできないと考えます。

一部報道機関を除いて、ジャーナリストのほとんどが、私見と同様だと思っています。


不偏不党公正中立は、権力の介入を許さない、報道機関の自主的規律を意味するものであります。ある新聞社の海外支局長が、日本国内での多くの報道機関の叫びを受けて、訴追後帰国が許された件では、わざわざ当人を官邸に招いてその労をねぎらったことと、対をなしていると感じます。

さて、表現の自由、言論の自由の観点から、最近もうひとつ見過ごすことができない事実があります。


安倍内閣は、連休明けにも、先に閣議決定した集団的自衛権行使容認を具体化する一連の法案を、国会に提出する予定です。この19くらいにもなると言われる法案に反対する立場の野党議員が、これらを『戦争法案』と表現したことに噛み付いて、与党側は、これの撤回を求めている件です。

これまで、国会議員や国務大臣の失言、放言は数限りなくありました。与党側は、あたかも政府与党が提出する法案は、戦争をするものであるかに揶揄し、レッテル貼りするもので許されないと仰っております。確かに、政府与党は、まして、自民党や安倍内閣を支持する方々も、積極的に戦争したいとは、お考えではないでしょう。

問題は、『戦闘地域』に行き、同盟国を『軍事支援』することが、戦争に巻き込まれることに繋がるのでは?と言う不安です。実際安倍首相は、自衛隊が戦闘地域に行って攻撃を受けたら、武器の使用をすることになると、国会で答弁しました。殺し殺されることは、戦争の本質ではありませんか。

集団的自衛権を発動するかどうかは、政府の判断でなされます。現時点では、『平和の党』を標榜して与党側に位置する政党が、自衛隊の派遣は、常に国会の事前承認を要すると主張しておりますが、そうだとしても、巨大与党の現実からして、結局承認手続に数日要するだけで、同盟国が現に行っている戦争に、参戦することになるでしょう。


先のイラク戦争は、大量破壊兵器を保持するサダムフセイン大統領率いるイラクの脅威から、国際社会を守るためと言う大義名分で、アメリカ合衆国が、『先制攻撃』して引き起こされました。ところが、アメリカ自身が、大量破壊兵器は存在せず、イラク戦争の大義はなかったと誤りを認めているのです。

同盟国が現に行っているどんな戦争に、集団的自衛権を発動して軍事支援するのかの点について、安倍首相は、「個別具体的、総合的に判断する」と答弁しています。仮に、同盟国が先制攻撃を仕掛けた戦争の『戦闘地域』に行って『後方支援』ではなく、今度は『軍事支援』したら、自衛隊員に被害が生じるに留まらず、『戦闘地域』から遠く離れた『同盟国』自体ではなく、その基地等を提供する日本国そのものが、攻撃にさらされる危険性があるのです。

さて、これらを推進する立法について、『戦争法案』と表現することが、それほどこの法案の実態に反しているとは、少なくとも戦後世代で憲法を学び、その恩恵に浴している私からは思えません、それではなんと表現いたしますか。


それはそれとして、より本質的な問題は、国会議員が、国会委員会でなした発言について、同じ国会議員が問題にしていることです。国会こそ国民を代表する国権の最高機関ではありませんか。多種多様な国民の意見を出し合い、議論するのは当然だと考えます。だからこそ、国会議員には、憲法上免責特権が認めれているのです。

時として国会では聞くに耐えないヤジや暴言が飛び出します。

昨年国会の委員会で、結婚や出産をしない女性議員に対して、ヤジを飛ばした議員が、後日謝罪しました。

もっとも、国会の委員会に、答弁のため出席を求められた内閣を構成するある大臣が、議員の質問とはなんの関係もないのに、この議員が所属する政党は、かつて日教組から金員を得ていたからと言う理由で、突然『日教組!』と叫んだことについて、寄付金他は一切授受はなく、完全な誤認であったことが判明した後も、その発言、否ヤジに関して、責任を問われたとは聞いたことがありません。


国会議員の先生方の国会での発言の基準は、わかりかねるものであります。

 

プロがプロの力を発揮するとき

2015年4月28日
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4月14日夜、広島空港で起きたアシアナ航空の着陸失敗事故について、先日客室乗務員の不手際を言いました。
プロはプロでありなが ら、そのプロが統合失調症、当時の言い方で、精神分裂病だったため発生したのが、1882年(昭和57年)2月9日に起きた日航機羽田沖 墜落事故でした。この事故では、亡くなった方がおられますが、この機長は、いち早く救命ボートで脱した姿が、テレビで全国放映されまし た。昨年韓国珍島で起きたセウォル号の遭難と似ています。
今年は、航空機が関連する事故や危機が多いような気します。
ジャーマンウイングスの事故と言うか事件の後も、先日は、徳島空港であ わやの事態が起き、そして広島空港の事故です。日航機羽田沖事故の翌年は、冷戦の中『大韓航空機撃墜事件』が起き、日本人の犠牲者も出ま した。
その2年後の1985年(昭和60年)8月12日、単独機の事故としては、世界最悪とされた日 航ジャンボ機のあの事故でした。
でも、子どもの記憶として残っている怖い年がありました。私が子供時代の1966年(昭和41年)には、 立て続けに日本国内で、重大事故が起きています。
雪まつりの札幌から、羽田に向かった当時最新鋭と言われた全日空ボーイング727型機が、忽然と羽田沖に墜落した事故では、搭乗者 全員が亡くなりました。
この事故は、結局事故原因は不明と結論づけられたのですが、当時単独機の事故としては、世界最悪の事故となったの でした。その1ヶ月後の3月4日には、カナダ太平洋航空機が、羽田空港への着陸に失敗して多くの人命が失われ、なんとその翌日の3月5日 には、英国海外航空のボーイング707型機が、富士山上空で乱気流に巻き込まれて空中分解し、全員死亡した事故がありました。
さらにこの 年の秋には、全日空YS11型プロペラ機が、松山空港近くの海に墜落して、こちらも全員亡くなると言う痛ましい事故が相次いだ魔の年と なったのです。
嫌なことが続くと思ってしまうと、マイナス思考になりがちですが、門外漢の私がこんなことに気づいているのですから、プロの皆様 は、とっくに対応しておられるはずです。
実際、1966年のあの辛い苦しい時期を乗り越えたANAホールディングスは、安全性では世界に 冠たる航空会社になりました。また、その後乗客が亡くなる事故は、例の日航機羽田沖墜落事故まで、国内では発生したことはなかったはずで す。
ですから、今回の広島空港でのあわや大惨事の事故は、プロの皆様に、さらなる緊張と使命感を鼓舞し、安全安心を確実にする契機となっ たと思います。
マスコミ報道では、今回広島空港での事故の状況が明らかになるに従い、大惨事にならなかったのは不幸中の幸いと論じられています。
その表現はともかく、私は、負傷し、恐怖を味わされた方々にはすまないと思いつつも、これまたプロが歴史に学び、初心に帰ってプロたるゆ えんを発揮するギリギリの『天(空)からの思し召し』ではないかと捉えている次第です。
負傷した方のご回復と、事故に遭われた皆様のメン タルのケアーがなされますよう願うものです。

プロがプロたるには、謙虚が必要です。

2015年4月27日
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人間が危機的状況に陥ったとき、パニックとなりうることは、様々な場面で実験されています。

 

過日広島空港に着陸しようとした韓国アシアナ航空機が、滑走路手前の高さ6.4メートルの着陸誘導用アンテナに接触して、滑走路を外れて停止した事故は、一歩間違えば大惨事となりかねない衝撃を受けました。

 

広島空港は、山を開いた高台にあり、雲や霧が発生しやすく、着陸寸前まで、どこを飛行しているのか、乗客として把握しにくい空港だと思っています。

 

今回の事故は、かなり低空で進入したと想像されますが、計器が不都合だったのか、パイロットの技術が問題だったのか、はたまた別の原因があったのか、現時点では、明確とされておりません。

 

この段階で報道されたところで気になるのは、客乗務員の対応です。予め言っておきますが、これが韓国の交通機関だから……ではありませんので、誤解なきよう願います。

 

複数の乗客の話として、衝撃が起き、酸素マスクが降りて来て、煙(炎?)が見えて、乗客から泣き声等が起きる中で、ようやく航空機が停止したとき、客室乗務員は、韓国語で「ドアが開かない!」「爆発するから早く降りて!」等叫んでいたと言うことです。

 

これはいただけませんね。乗客の生命安全を守るプロがこれでは、乗客は、さらにパニックとなるでしょう。 数年前、ANAグループのプロペラ機が、高知空港に胴体着陸したことがありました。

 

このとき、誰ひとり怪我はしませんでした。前輪が出ないアクシデントに見舞われたコックピットは終始冷静で、「われわれは、日頃胴体着陸の訓練を受けています」とアナウンスしました。客室乗務員も、火災の発生等の万が一に備え、乗客の座席を移動させるなど、『サラリと』と対応したと言うことです。

 

ところが実際は、パイロットは、胴体着陸の訓練は受けていないのです。機体が激しく損傷する胴体着陸の実験などないのだそうです。咄嗟の機転なのか、これこそ日頃の訓練なのか私にはわかりませんが、見事ですね。あの機長の一言で、どれほど乗客は落ち着いたか、少なくとも胴体着陸までパニックにならず、それどころか乗務員と心を一にして、信頼関係を保てたことは素晴らしいことです。

 

昭和60年8月12日、御巣鷹山に墜落した日航機の乗務員にも、最期の最期までプロを貫抜いた秘話がありました。機長は、操縦不能となったコックピットで、副操縦士に「どーんと行こうぜ!」と励まし、入社数ヶ月の20代の客室乗務員の女性は、緊急着陸(不時着)した場合に備えて、乗客を誘導する手順等をメモした紙を握りしめて絶命したと報道されました。

 

これがプロがプロたるゆえん、だからこそ私たちはプロを信頼し、生命他を預けることができるのだと思っています。

 

広島空港での事故が起きた同じ日、福井地方裁判所は、福井県高浜原発の再稼働を差し止める仮処分決定をしました。

 

個人的には、幸い大惨事に至らなかった広島空港の事故よりも、こちらをマスコミは大きく取り上げて欲しいと思うのですが、早速この仮処分決定を受けて、様々な意見が寄せられております。

 

政府は、国は、事件の当事者ではないから司法の判断についてコメントする立場にないと言いつつも、原発再稼働については、例によって『粛々と進める』のだそうです。

 

いろいろな意見があるのはわかります。

現在報道されたところで、私が気に入らないのは、「自分たちはプロなのだ、何も知らない裁判所が何を言うか!」と聞こえる原発再稼働に関わった人の意見です。

この方々は、高度の政治的な問題には、司法は黙っているべきとも仰いました。

司法は、法律や政府の行為が、 人々の権利を侵害するか、その恐れがあるかどうかの観点で判断します。

原発が必要かどうかに論及するものではありません。

原発再稼働を推進したいプロの方々は、謙虚さがないと思いました。

プロは、ある分野でのみプロなのであって、プロである自分たちの意見や、やってきたことは全て正しくて、とこにでも通用すべきかに考えるのは過信であり、バランス感覚に欠けると思うのです。

 

以前にもお話したと思いますが、高知空港のときの機長は、乗客を目的地まで送ると言う、ただ当たり前のことをしているだけと社内で語ったそうです。

 

この謙虚さが、プロたるゆえんなのかもしれません。

 

学生辞めますかスマホ辞めますか?

2015年4月26日
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ある国立大学法人の入学式で、学長が、新入生に対して、「学生辞めますか、スマホ辞めますか」と述べたことが話題になっています。

 

これについては、各世代立場から、いろいろな意見が寄せられています。

 

学長に反対する意見は、スマホは悪モノとの決めつけがあり、スマホが日常生活に溶け込んでいる現実を理解していない、学生が知識を得、世の中の情報を把握するためにも必要と言います。

 

学長の意見に賛同する意見は、スマホの使い方等で嫌な思いをした経験から、マイナスイメージを持たれたものであると思われます。

まず、街中、駅や道路でスマホをいじっている人と遭遇して、自分が、あるいはその人が、危険な目に遭った現実を言うのことから始まり、例えば、授業中や会議中に人の話を聞くではなく、常識がない、バカになる等の意見が寄せられているようです。

 

私は、機械オンチであり、新しいものについていけない人間です。

 

そんなこと、全く自慢にならないなですが、今のところ、スマホが無くても生きてはいけます。

でも、スマホを知らないために、知識情報を得ることがなく、独りよがりで成長していないと思っております。

スマホを使う使わないは、どちらでも良いと考えております。

 

ただ、なぜこの学長は、大学の入学式でこんな発言をしたのでしょう。

 

この大学に入って、この大学で学ぶことの意義、この大学でなければ経験できないことの重要性を言いたかったのではないでしょうか。

別に、スマホを辞めない学生は、処分の対象になると言うわけではないのだと思います。

都会の喧騒を離れたこの場所で学び、ここでしかできないこと、この風土で培われ、受け継がれた全てを、自らの頭で考え、体得してもらいたいのでは?

 

すなわち、この大学でなければならない独自性を訴えたかったのではないでしょうか。

 

そんな受け取り方でおりましたら、この大学の在学生が、私の考えるところと同視の投稿をしておりました。

近時、自分で考える機会が減ったと感じます。

例えば、携帯が普及して、自ら文字を書く頻度が減り、漢字を書けない若者は増えていると思います。

 

スマホでたちまち調べることができ、学生論文も、その引き写しが多いと嘆く大学教員を知っています。

ある企業の就活担当者が、ある大学で、その説明をしているときに、会場にいた学生の多くがスマホをいじっていたので、憤慨して帰ってしまったと報じられたことがありました。

 

この学生もさるもの、この企業の情報は、担当者の話を聞くよりも、スマホから企業情報を得た方が、正確でわかりやすいとのことでした。

スマホが日常生活に取り込まれているのであれば、その使い方は、各人の自由であると言わざるを得ません。

 

冒頭挙げた国立大学法人の学長は、この大学で学ぶ意義を感じて欲しい、せっかくこの大学に入ったのだから、スマホで即座に知る既存の情報から一歩抜け出した自分の頭と体で感じたところをスマホで得るのと同様、日常生活に取り入れてもらいたいと言われたのだと思います。

 

そんな思いで朝の通勤電車に乗車しておりましたら、7人掛けの座席に座る乗客全員が、スマホをいじっておりました、、、、。