ここにも黒田官兵衛が

2015年3月6日
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年が明けると『箱根駅伝』があります。

東京大手町と箱根町芦ノ湖の間の10区間を各大学が襷を繋いで往復する陸上競技です。この10区間のうち最長距離であって、高低差800mを一気に駆け上がる5区通称山登りがハイライトで、『山を制する者は箱根を制する』と言われ続けております。

今年もそうでしたね。この5区のスタート地点が小田原市です。今日は、小田原に行って来ました。

写真 2 H27.03.04

小田原市のシンボルともなっているのは小田原城です。最初の築城は知りませんが、戦国時代北条氏の居城だったことで知られます。
天下統一最後の仕上げとして豊臣秀吉が大群を率いて小田原城を取り囲んだ様子は、昨日のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも放映されましたね。

この小田原戦のとき、城に篭って動こうとしない北条側を驚かせたのが、黒田官兵衛の策と言われる『石垣山一夜城』でした。
小田原城から3km程離れた石垣山に密かに出城を作り、これが完成した途端に周囲の樹木を取り払ったことから、小田原城の北条側は、一夜にして城が現れたと驚き、戦意を喪失してやがて和議となったと言われます。

この石垣山一夜城と合わせてこのとき故事ともなったのが『小田原評定』でした。
武田信玄、上杉謙信でも落とせなかった小田原城が難攻不落と信じていた北条氏側では、「城から出て野戦に持ち込むべし」「いや、難攻不落のこの城で戦うべし」と重臣たちによる評定が繰り返されたが、結局何も決まらなかったと言われます。
ここから、いつになっても結論が出ない会議や相談のことを指して、『小田原評定』と揶揄されるようになったのでした。

このように言うと、北条早雲以来この地を収めていた北条氏は無能だったかに聞こえるかもしれません。
ですが、結果としてほぼ無血開城となりました。ここには、黒田官兵衛の知略と温情があったことは否定できませんが、戦乱の世で、長くこの地に戦火を齎さなかった北条氏の最後の決断は讃えてあげて良いと思います。

島津氏や伊達氏に対する豊臣秀吉の処置と比較されると氏政切腹、氏直追放により没落した北条氏は哀れを誘わずにはいられませんが、豊臣秀吉の中には、脅威となって来ている徳川家康を意識した策だとされています。

その後徳川幕府となり、小田原城は大久保氏や稲葉氏といった徳川家にとって重要な家臣が収めたこともあって、現在も、当時を彷彿させる絢爛優雅な姿を見せているのです。

何も決められないと揶揄された北条氏でしたが、今も多くの遺構が残されて、天守閣には多くの観光客が溢れ、この街から箱根駅伝を見守る小田原城を残してくれた功績は大きいのです。

そんなことを考えながら、新宿に戻りました。

 

すすきのおじさんとビールの煙突

2015年3月5日
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この街の顔、◯◯市と言えば誰を思い浮かべますかと問われた場合、余市ならマッサン 小樽なら石原裕次郎 他にもライバルはいると思いますが、まあ、妥当なところと落ち着くのではと思います。

北都札幌はどうでしょう?

クラーク博士?、島義勇、岩村通俊などの創世記の札幌を思い浮かべる方、中島みゆきさんや横路孝弘元北海道知事(元衆議院議長で、現在も衆議院議員です)など、現在もご活躍の方々でしょうか?

 

新宿歌舞伎町、福岡中州とともに日本3大歓楽街とされるすすきのをイメージされる方は、岩村通俊氏を挙げるかもしれません。

 

明治2年に蝦夷地から北海道と名称変更して、島義勇により札幌本府が設けられた後、明治4年に赴任した岩村通俊によって、開拓事業が進んだ歴史があります。

そして、この岩村通俊時代に薄野遊郭ができました。岩村開拓判官の命を受けた薄井龍之の名をとって、『ススキノ』が誕生したとの説があるからです。

 

もっとも、このあたり、昔薄野原だったからとの説もありますが。 このすすきの交差点に燦然と街を照らしているのは、あのニッカウヰスキーのヒゲのおじさんです。

 

このおじさん、ウイスキーブレンドの名人『キングオブブレンダーズ』と呼ばれた英国貴族ローリー氏をモデルにしたとされるニッカウヰスキー株式会社のマスコットです。マッサンに魅せられる前から、このおじさんこそすすきののシンボルと感じておりました。

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札幌と言えばすすきの、すすきのと言えばあのおじさんと思ってしまう人間からすると、札幌と言えばすすきの交差点のニッカウヰスキーの看板のおじさんと答えてしまいそうです。

 

すすきの好き、アルコール好き人間からすると、もうひとつ札幌のシンボルと言えるモノがあるでしょう。

 

札幌と言えばビール、ビールと言えばサッポロビールとたたみこめば、サッポロビール園のあの煙突?かもしれません。

ビールも新聞も◯◯◯の私ですが、札幌では『サッポロクラッシック』を飲んでいます。サッポロビール園の雰囲気も好きです。

写真 2 H27.03.03-2

 

結局福本悟にとって『この街のシンボル』は、全部アルコール関係ではないかと言われそうです。

いや、これは札幌に限らない?何処に行っても飲み食いの話しかない!確かにそうですね。まあ、アルコールもその街の文化歴史を形成するので、出先で経験するのは悪くはないでしょう。

 

何?出張先でなくてもやってる?これまた確かにそうでした。それはそれとした、北の都札幌も、まあ良いところです。

 

マッサンが見た風景

2015年3月3日
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行って来ました。余市蒸留所。
写真 1 H27.03.03
余市蒸留所とは、正式名は、ニッカウヰスキー株式会社北海道工場と言い、1934年(昭和9年)マッサンこと竹鶴政孝氏により開設された蒸留所です。
当初は、余市で採れるりんごを使い、りんごジュースやワインを製造しておりましたが、1940年(昭和15年)にニッカウヰスキーに社名を変更し、ウイスキーの出荷を開始、折からの太平洋戦争時にはウイスキーが統制品となったため海軍の管理下に入って製造を続け、その後大阪の株主より、朝日麦酒に株式が譲渡され紆余曲折あったものの本物のウイスキーを造ると言う竹鶴政孝氏の一貫した姿勢は変わることなく、今でもシングルモルトウイスキー『余市』がここで造られているのです。そしてこの蒸留所自体が北海道遺産に認定され、平成17年には、敷地内建物のうち9棟が、国の登録有形文化財に登録されております。
写真 2 H27.03.03

「来てよかった!」の一言です。

文化財ともなった建物、『マッサン』で出てくる見慣れた風景も良かったですが、まず余市蒸留所の姿勢が素晴らしい。

入館料は無料、敷地内は希望すればガイドが案内、写真撮影は自由、そしてウヰスキー等の試飲が可能でありした。
前日暴風雪の網走では、1080円の入館料を支払った施設での滞在に、あまり良い印象を持てなかったので、マッサンそして受け継いだ関係者にとても良い気持ちにさせていただきました。

余市蒸留所の案内、見て来たことに関しては、機会を改めますが、試飲会場から見えた風景が、何と無くNHKテレビ『マッサン』で、マッサンが初めて余市に来たとき眺めた風景と似ている感じがして、魅入られてしまいした。
雪と凍りに覆られた余市川その背後に連なる山々、そしてすぐ右に行けば日本海です。前日道東で暴風雪に見舞われた私は、好天の余市でほんわかのどかな気分にさせられました。

写真 3 H27.03.03

余市には、それまで何回か来たことがありましたが、焼酎党の私は、鹿児島では焼酎工場に行くことはあっても、余市ではウイスキー工場に立ち寄ったことはありませんした。
そしてマッサンこと竹鶴政孝氏とニッカウヰスキーの成り立ちそしてその伝えたいものを知ることがなかったのです。

テレビでもそうですが、マッサンの周りには人か集まり、とても良い気分にさせてくれますね。
余市蒸留所は、本当に気分を良してくれました。あの風景とこの人がマッチした素晴らしいコントラストだと思い、余市蒸留所を堪能しました。

注   試飲ができたから言っているのではありません。どれくらい飲んだか?ですって。『一応』①余市10年もの②竹鶴17年もの③ワイン22度それぞれ1杯づつと案内されております…。

 

株主有限責任と取締役の責任

2015年3月2日
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  民事再生法の適用を申請したスカイマークに対しては、かなりの支援の手が上がっているようです。

ANAホールディングスは予想されたところですが、LCCのエアアジアやもともとの母体エイチ・アイ・エスはともかく、金融業界や果ては商社、タクシー会社まで多くの会社が名乗り出たと報じられています。

大手企業が民事再生で復活するには、再生債権の棒引きをしてもなお魅力ある活動を期待するので、どうしてもスポンサーが必要になるでしょう。
しかし、こんなに手が上がるのなら、なんで経営破綻なんてしたのか、破綻する前に名乗りでられなかったのかと不思議に思う向きもあるでしょう。

スカイマークは、良きにしろ悪きにしろ、前代表取締役が全てと言って良いのでは?

私財100億円を投じ、また、倒産直前には、社員に対する給与の支払原資まで枯渇したので、数億円をスカイマークに融資したらしいです。
確かに取締役としての責任はあるかもしれませんが、株主有限責任からすると、なんで?と思わざるを得ません。

スカイマークの保有する羽田空港の発着枠が魅力といわれます。

もともと格安航空代金を標榜して航空業界に新規参入したスカイマークによって、羽田空港発着枠の牙城が、切り崩されたとも評されました。
羽田空港は国際線も増加し、2020年の東京オリンピックパラリンピックを前にして、さらなる需要が見込まれます。
地方路線が赤字に陥って、廃止されるのと極をなす感があります。

航空会社は当然のこと、旅行代理店、タクシー会社さらには消費に影響を与える金融業界にとっても、『羽田』を握ることは相当な経済効果を生みだすものと期待があるのでしょう。
民事再生法の申請後、早速スカイマークは、茨城や米子からの撤退を言い、仙台からも離れるのではないかとも報じられています。

スカイマークは、羽田福岡で始まり、新千歳や沖縄那覇等幹線が主体だったところ、それこそ前代表取締役のころから、地方路線を運航するようになりました。ここは評価してあげて良いと思っています。

とするならば、多く名乗りを挙げたスポンサーの狙いとその後のスカイマークの運航路線、どこを主力にするかは見えております。
羽田空港を起点にした幹線がメインとなるでしょう。前代表取締役は、日本国内は、地方まで飛ばしながら、例のA380型大型機でニューヨークへ一挙にを意図しました。
細やかなこころ使いと大胆な切り込みは、バランスを失したのでしょうか。

相次ぐLCCの参入、円安による燃料費の高騰などにより、経営が悪化した面は否定できず、前代表取締役は、志半ばだったかもしれません。

私は、スカイマークは良く利用します。

前代表取締役は、あたかもミニスカート大好きな助平オヤジのように思われるならば、その評価は?です。

かつて日本航空は、会社更生法の適用を受けました。誰が責任を取ったでしょうか。100億円はともかくも、誰が私財を投じたでしょうか。
そして仲間たち、すなわち従業員を守ったでしょうか。スカイマークは、誰もクビになりませんでした。辞めたのはまさにこの前社長だけです。

私の依頼者は、個人事業主、中小企業の方たちです。
経営破綻すれば、当然全責任を問われます。スカイマークの前社長は、株主として破綻時に数億円拠出しました。
そして何も言わず辞任しました。少なくとも最後は潔いと思います。

羽田空港の枠が喉から手が出るほど欲しい企業が、ハゲタカにならないよう願っています。

西郷さんに教えられて

2015年2月27日
 鹿児島の男性に対する褒め言葉は、『せごどんに似とっと』だと聞いたことがあります。

せごどんとは、西郷隆盛さんです。

子どもたちは、上野の西郷さん像が印象強く、西郷隆盛さんが薩摩すなわち鹿児島ご出身だと知らないようです。

西郷さんがバカな弟子たちに、『おいどんの命、おはんらに預けた』と言って、『政府にただす筋これあり』の蜂起をしたのは、明治10年2月15日、鹿児島が60年ぶりの大雪となった朝でした。

そして西郷さん一行は、懐かしい故郷鹿児島の城山に戻り、最後のときをむかえたのです。
前夜、西洋事情に詳しい村田新八が中心になって皆が歌った『ラ・マルセイエーズ』は、西郷さんをして、別れではなく、勇気を与える歌なのだと言わしめたものです。

春は、別れと出発の季節です。写真 4  27.02.25

卒業式等では、『蛍の光』が歌われますね。『蛍の光  窓の雪………開けてぞ今朝は、別れ行く』で、別れの歌といわれます。

ただ、原曲であるスコットランドの『オールド・ラング・サイン』は、別れを意味するものではありませんでした。この辺り、あるいはNHKの『マッサン』で放映されるかもしれません。
家の近くのあるスーパーでは、営業終了時刻になると、蛍の光が流されるので、蛍の光の重みを感じなくなってしまいました。

西郷さんたちが、最後の夜、勇気を与えると評したフランス国歌を歌ったと言うのは、別れは次の再会を約束し、決してこれで終わりではないと思ったのではないでしょうか?

蛍の光も、原曲がそうであるように、

この場では一旦別れるけれども、また会おう!それぞれが大きくなった姿を見たいねと言う約束の歌と思えます。
写真 1写真 2-1



そんな思いで鹿児島空港にある足湯に浸かりました。

西郷さんが、『おやっとさん』(お疲れさん)と労ってくれたように感じました。