早咲きの梅の便りが、寒さの中聞かれます。梅の見所は全国いくつもありますが、私の場合は、太宰府天満宮となります。 現在の私たちにとって太宰府が有名なのは、菅公すなわち菅原道真によることが大きいのではないでしょうか。 太宰府が歴史に登場するのは7世紀です。大和朝廷がこの地域の政治力を確保するため筑紫太宰なる政庁を置いたことは日本書紀に出ています。 ただ、『太宰府』となり、その重要性に着目されたのは、天智天皇のころ、仏教伝来等の親交があった朝鮮半島百済の再興を目指して唐、新羅連合軍とた戦った白村江で破れた朝廷が、北部九州の防衛網として城を作り、また、『防人』を置いたことでありましょう。 今も太宰府周辺には、『水城』『大野城』等の名が残ります。 この太宰府の地に平安時代都から菅原道真が左遷されて来られました。 菅原道真が朝廷から信頼され、また、人民からの人望を妬んだ藤原氏の策謀とされます。 学問を好み、梅を大切にされた菅原道真公は、この地で都を懐かしみ、生涯を終えたのです。
『東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』は、あまりにも有名な歌です。
太宰府天満宮が菅公こと、菅原道真公を御祭りするようになったのは、菅公が生涯を遂げて、その遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間も無くその牛が付伏して動かなくなったので、これは菅公の思し召しと判断した人びとにより、この地に遺骸を葬り、後に太宰府天満宮となったのだと説明されます。
2月に入ったある天気の良い日、太宰府天満宮に詣でました。
天満宮の本殿横には、『飛び梅』の枝があります。この梅は、早咲きの梅と言われ、菅公を偲んて都からたった1日で太宰府まで飛んで来たとの謂れがあります。
この梅だけは、ほぼ見頃でした。この先3月半ばまで、ピンクの梅が咲き乱れます。 そして、学問の神様も祀られる菅公には、この時期は年間だ最もお忙しい時期であります。太宰府天満宮の境内は、人人人でありました。 受験生だったのは前世紀となってしまいましたが、太宰府天満宮に来ると、今でも厳粛な思いがいたします。