小江戸川越のご案内です。

2016年11月4日
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酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保と続くと、何を思い浮かべますか?

 

いずれも江戸幕府の中核、老中・大老を務めた実力者、幕閣を支えた人物です。社会科の教科書にも出て来ます。この人たちに共通するものがあるのです。それは、今では『小江戸』と呼ばれる埼玉県川越市、江戸時代の川越藩を治めていたことであります。

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川越は、武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が合流する古くからの交通の要所で、江戸時代には、船を通して江戸まで物資を運んでおりました。現在の川越市は、埼玉県で3番目に人口が多い都市であり、東京都23区内へは16.3%の通勤率です。川越市内には、川越駅、本川越駅、川越市駅があり、JR線、西武線、東武線が通じていて、現在でも依然と

して交通網が発達しています。

 

 

 

 

 

今日は、川越に来ました。

 

川越を小江戸と言い、幕閣の実力者を配したのは、川越は、江戸幕府の北の要であり、武蔵国一の大藩であったからです。親藩譜代の城下町であり、商業や学問が盛んであり、徳川家光誕生の間等、寺院・仏閣・歴史的建造物が多くあり、関東地方の文化財の数では、鎌倉市、日光市に次ぐ都市です。国から、埼玉県唯一の『歴史都市』に認定されているのです。先の老中大老は、いずれも知恵者、学問好きで知られています。

川越市は、現在でも多くの学校がある文教都市でもあります。 私が子どものころ、東京の成り立ちについて学校で教えられ、グループ研究の課題とされた経験があります。そのとき、昔の人たちの努力と言う意味で、太田道灌の江戸城や、玉川兄弟の玉川上水等がテーマにされたことを覚えています。実は太田道灌は、最初に河越城を造りました。戦国時代には、管領上杉氏や小田原を拠点とする北条氏が支配するようになり、江戸幕府開設前の東国一の都市でした。

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また、江戸幕府になってからは、歴代藩主は、武蔵野の拠点となるこの地の開発に力を注ぎ、松平信綱の時代に玉川上水、野火止用水が、柳沢

吉保の時代には、現代の新田の開発祖となる土地開発がなされています。領内では狭山茶が生産され、また、開墾地ではサツマイモ作りが行われ、川越は、焼き芋発祥の地とも言われますね。 最近は、海外からのお客様も増えています。小江戸川越とともに、『蔵のまち』のイメージ作りがなされています。市内を運行する路線バスには、『蔵のまち』を経由することが表示されています。

ここに来ると、蔵のまちを通る一本道を、バスは、多くの観光客を避けるようにして、運行されていることに驚きます。危ない!とハッとするときもあります。どこでも言われることですが、観光客のマナーの問題があります。食べ歩きをしているのか、道端にゴミが落ちているところを目にします。折角まちが保存されているのにと思わずにはいられません。

 

観光客が散策できると言うことは、歩きやすい地形であることを意味します。市内中心部は、ほとんど高低差はなく、市内最大でも50mくらいでしょうか。市内からは、関東平野を取り囲む山々が見えますが、このように平地で住みやすく形成されたのも、江戸時代等に開発が進められたからでしょうか。川越の街は、開発より保存に向けていると思われます。

これは、昨今各地で検討されているこれからのまちづくりの参考にもなるのではないでしょうか。 こんなふうにバスの中から蔵の町並みを見ていましたら、途中下車したくなりました。川越のシンボル『時の鐘』は、現在耐久工事中でした。

 

そこから歩いて太田道灌の像がある川越市役所を通って、目的地に着きました。いつかこの町並みを、ビールを片手にゆっくり歩いて見たいと思いました。