昔の子どもは注射漬け?今の子どもは注射嫌い?ーーウイルスに感染したくない人間のひとりごとです。

2016年9月25日
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子どものころ、よく医師から注射をされた経験があります。


小さいときは、お尻にされた記憶もあり、あれは嫌でしたね。小学校のころまでは、あまり丈夫なほうではなかったようで、しょっちゅう注射されましたから、腕には、その跡が残っていました。腕が硬くなって、注射針が折れたこともありました。やがて注射には慣れっこになり、太い静脈注射でも、恐怖感はなくなりました。子ども時代、小学校では、BCGとか風疹とか、予防接種がありました。

私のころは当たり前だった予防接種、近ごろの子どもたちは、しなくなったのでしょうか。ひとつには、効果的な薬の開発があり、また、注射の功罪も言われていたように思います。昔、特におたふく風邪、百日咳、麻疹は、必ず予防接種を受けました。最近の子どもたちは、注射を受ける機会が少ないのか、テレビに放映される接種の場面では、いつも泣いている姿ばかりです。


私の息子さえ、高校生のころにインフルエンザの注射を受けるのに、痛いから嫌だなんて言っていました。体育会の代名詞のような男だと思っていたのですが。それで、予防接種を受けていない子どもが、そのまま大人になってこれら病に感染したら、かなり症状が重くなるといった脅しのような報道も、あったと思います。


さて、この夏、関西方面を中心に、麻疹が発生していたことが発表されました。これが知られたきっかけは、先月中旬、関西国際空港に勤務する女性従業員が、医療機関より麻疹と診断されたことにあります。同時期に関西国際空港を利用した一般客3人も、麻疹と診断されたところ、いずれも7月31日に、関西国際空港に居合わせたことが判明したと言うものです。



麻疹の潜伏期間は10日から2週間と言われており、最初に麻疹と認定された関空従業員の同僚も、8月下旬から複数が麻疹に罹り、8月26日には、たまたま関空の関連機関に居合わせた人も感染したとのことです。その後も『感染』が増えて、医療機関の医師看護師や、関東方面にも麻疹と疑われる症状が現れた方がおり、その方々は、麻疹と診断された人か、関西空港にいずれも接点があったことから、9月に入って、特に大阪府では、『大騒ぎ』になった様相であります。

日本国内では、年間発生する麻疹の数は、30件くらいとされ、2015年には、WHO世界保健機構は、日本には、土着の麻疹ウイルスはないと言う意味の『排除状態』と認定しているそうです。従って、国外からウイルスが持ち込まれたと考えられるわけですが、既に7月31日より1ヶ月以上も経過した時点での感染注意の呼びかけとなっていて、今後も二次感染、三次感染が心配です。



最初の7月31日に感染したと推測される4人からは、同じ『H1』なる遺伝子型だったとされますが、何しろ国際線の利用客だけでも、今年の夏は、1日60.000人と過去最高値を記録した関西国際空港、感染源を特定することは困難でしょう。

関西空港で感染した人は、ほとんどが20代から30代前半だそうです。中には10代の人もいるとか。これは予防接種をしっかり受けていなかったことが一因と考えざるを得ないと言うのが、国立感染症研究所の見解です。麻疹は、空気、飛沫、接触で感染し、その力は強く、ワクチン接種が予防には有効なのだそうです。ところが麻疹に関しては、1978年に、ワクチンによる定期接種が制度化され、2006年に、1歳と就学前児童に2回接種に変わった、しかし、ワクチン接種後10年くらいは抗体が十分ではなく、まさに20代から30代の人が、この世代に当てはまるそうです。昔散々注射漬けされた?世代は、大丈夫でしょう。

9月7日段階では、関西空港関係者で、麻疹と診断された人は43人に達し、大阪府は、麻疹ワクチン未接種もしくは接種不明の関空従業員のうちとりあえず300名に、急ぎ接種をさせると報じられました。それでもワクチン未接種もしくは接種不明の30代以下の関空従業員は900名おり、ワクチンの確保ができ次第、感染者と関わった可能性の高い部署の順に、ワクチン接種を行っていく方針なのだそうです。



麻疹って子どもが懸かるもの、だから子どものときに注射するのだと教えられた世代からすると、まことに驚きですね。

さて、私が関西国際空港を利用したのは9月17日です。その前日の16日、大阪地方裁判所から、ひとつの発表がありました。大阪地裁の職員が、先月関西国際空港を利用したところ、麻疹に罹っていたことが判明したのだそうです。私は、大阪の裁判所にも行きますが、裁判所には裁判所関係者と検察官、弁護士だけが行き来するのではありません。当事者、被告人、警察官、刑務官そして公開される裁判を傍聴する一般の方々がおられます。


ある意味裁判所は、ありとあらゆる方々が集まる場所です。でも、今更感染防止のために、空港や裁判所を閉鎖するわけにはいかないでしょう。

そんなことを考えながら、9月17日夜、大阪市内から回って、関西国際空港に帰京のため立ち寄りました。


私が、『弾は当たらない』と思っているのは、航空機に搭乗するときだけではありません。そもそも多少の風邪気味になっても、多少熱っぽくても、きさらぎ法律事務所を開設して20年以上経過しましたが、これまで1度も寝込んだことはないのです。

子どものころ、痛い思いをして注射漬け?された効果は残っていると信じて、夜の関西国際空港を飛び立った次第です。

世界遺産の国際観光都市京都、多くの国宝や重要文化財があって、誰でも無料で拝観できる施設をご存知ですか?

2016年9月23日
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年間観光客数が5.500万人を突破した国際観光都市京都。海外からの観光客も約200万人と、日本を訪れる外国人観光客の7人にひとりは、京都を訪れている計算になります。


何回も京都を訪れ、ファン、マニアあるいは信仰とか、一定な歴史を学ぶためにいらっしゃる方々は別として、京都観光にも定番はあるようです。私が子どものころから、金閣寺、清水寺、二条城がベストスリーでした、これに銀閣寺や嵐山嵯峨野散策、東山散策、祇園や河原町、大原や伏見等目的や宿泊数に対応して、観光される習わしです。私が中学校のときも、京都奈良が修学旅行地でした。

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そんな京都で、隠れたと言うか、ほとんどコースには入らない『名所』があります。この世界遺産の敷地内に、いくつ国宝があるのか、数えたことがないので正確にはわかりませんが、京都駅から徒歩圏内、しかも『国宝』とされる建造物にも『タダ』で入れますし、『タダ』でお坊さまの勤行を見学できるのです。

敷地内には、鳩を追ったり、ボール遊びする子どもたち、建造物内では、上半身裸で寝そべる外国からのお客様、若者は、回廊をスマホをやりながら歩いています(それが良いことだとされているとは思えませんが、咎められないのです)。そしてとにかく広い。でも現存する建造物は、江戸時代からそのままのもあるのです。さて、それはどこでしょう。

それは、浄土真宗本願寺派の総本山龍谷山本願寺すなわち、『西本願寺』です。京都には、『東本願寺』と『西本願寺』があることは、知られていると思います。東京には3つの弁護士会があって、その違いを聞かれることがあるのですが、成り立ちや会員数の違いがあるくらいで、中身すなわち業務の内容や能力に違いはありません。


本願寺にしても同じ、喧嘩しているのではありませんし、教義が違うわけでもありません。あえて言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代背景と言うか、それらに翻弄された?歴史の産物と、私は思っています。


浄土真宗の開祖が親鸞聖人であること、その教義は他力本願であることは、知られているかもしれません。他力本願とはすなわち、人間はみな同じ、階級も善悪もない、そして自分の力で祈願しても願いはかなわない、ひたすら南無阿弥陀を称えることにより、阿弥陀さまのお力により救われると言う内容です。


この世の生が終わるときには、阿弥陀さまの本願力により即極楽浄土に行くことが約束されていて、即成仏して御仏になる教えであります。これが、死して霊が彷徨うことはない、死は穢れではなく、第二の生であるとの信仰に結びついて、戦国時代『一向宗』とも言われる集団となり、特に織田信長を徹底的に苦しめたことに繋がりました。

親鸞聖人が広めた浄土真宗、中興の祖と言われるのは蓮如上人です。その蓮如上人が継いだ浄土真宗の小さなお手が、京都東山にあった『本願寺』でした。このころは、のちに信長も手を焼いた比叡山延暦寺の末寺のごときで、このときの本願寺はかなり寂れていて、ここには統一性も独自性も失われていたそうです。蓮如上人は、浄土真宗の再興に勤めて、機内にも徐々に教えが浸透してきたところで比叡山から疎まれて、『本願寺』は破壊され、北陸地方に逃れました。北陸地方に一向一揆が発生しやすかったのは、もちろん蓮如上人がそのような教えをしたわけではありませんが、阿弥陀さまの救いが死を恐れない抵抗となったのかもしれません。


やがて蓮如上人、近江国や京都の入口山科あたりに本願寺を移し、そして1496年、大阪御坊に『石山本願寺』の造営がなったのです。浄土真宗の門徒の家にあるご仏壇には、真ん中に阿弥陀様、左右に親鸞聖人、蓮如上人がおわします。なお、浄土真宗には、位牌はありません。写真も飾りません。死して祈る必要がないからです。御仏になられた方は、凡夫である俗世界で生きる私たちをお救いになる、ひたすら阿弥陀さまに感謝の気持ちを持てば良いのです。


以上の説明は、積極的な間違いはないとは思っておりますが、真面目、熱心な真宗のご門徒さまからは、その説明の仕方、お叱りを受けるかもしれません。私の理解は、浄土真宗は、人間には階層も優劣もない、人間は弱いもので、かつ悪玉を持っている、自分ひとりの力ではなにもできない、また、何かを自分の力で求めるものではない、ひたすら南無阿弥陀を称えることで、どんな人でも救われる、現世で悪人と言われる人であつても、『悪人正機説』しかり、御仏として極楽浄土で行くていくことができる、だから他人を信じなさい、自分だけで、何ができるものでもない、人に優しくなのだと言う理解です。


こんなふうに考えますと、西本願寺の境内には誰でも自由に入れる、料金は要らない、そして疲れた!面倒だ!の人は寝そべっても良い、だってそれが人間の普通の姿だから。阿弥陀堂、御影堂で行われる僧侶による勤行や布教、これは誰でも自由に、無料で参加することができます。

西本願寺の歴史、もう少しお話したいことがありますので、それは次の機会に。



今日は、複数の国宝があり、拝観料は不要、誰でも参加できる西本願寺にどうぞお越しくださいと申し上げます。それにしても広いです。その辺を歩いているお坊さまに、気軽に「こんにちは」と声をかけてしまいたくなる西本願寺に行ってきました。

 

今だから言える昨年9月19日の行動と私の思い。

2016年9月21日
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9月の三連休、敬老の日が9月15日固定から変わったことが原因です。

行楽シーズンを迎えることも理由なのでしょうが、10月10日固定だった体育の日も、移動しました。古い人間?からすると、東京オリンピック開催日だった10月10日は、戦後の復興、高度経済成長のシンボル、そして昭和の歴史的出来事であった『この日』は、記憶に留めておきたいものです。


もっとも4年後の猛暑の時期、2回目のオリンピックが東京で開催されます。 この9月の連休は、行楽というよりも、雨に見舞われる印象があります。2016年のこの時期、台風16号が、沖縄県から九州南部を通過するとされ、さらに日本の南には、『台風のたまご』がウヨウヨしているのです。今、東京は、久しぶりの日差しが出ていますが、これから新幹線で移動する先の天候は、気にかかります。昨年の今ころの『ひとりごと』で、十五夜お月さんのお話をしました。


今年は9月15日、北海道等北日本の一部地域で、満月が眺めれたようです。 


この9月と言う月、私にはあまり相性が良くないようです。それは、昨年『ひとりごと』でお話したように、もともと『月の中でのウサギの餅つき』が、悲しいお話だったから感じるのかもしれません。私の両親が、阿弥陀仏の本願力により、御仏になったのも9月でした。我が家のわんこ『こまち』の母犬『ももちゃん』が、虹の橋を渡ったのも9月でした。

世界的には『9.11』が思い出されます。暑い夏の疲れが出て、なんかスッキリしない時期でもあります。皆さんも、体調管理にご留意ください。でも、昨年9月には、歴史に残る出来事がありました。 9月18日金曜日夜、私は、国会前におりました。赤と青の紙のカードを持って、ここに集まった多くの人と声をあげていました。


「戦争法案絶対反対!」。元ある自治体の首長が言っていました。選挙のとき言わないで、こんなことをするのは、サザンオールスターズのライブに行ったほうが良い…。選挙のとき、それは今年の参議院議員選挙前、野党から散々争点隠しと指摘されながら、「憲法改正を国会が発議するには、両院の3分の2の議席が必要です。是非とも与党および改憲勢力に、3分の2を与えてください。この選挙は、それこそが争点です」って政府与党言いましたかね。


2014年暮れの選挙、いわゆる安保法案なんて話題にすら出ていません。


もっとも、自民党のマニュフェストにたった1行、『安全保障政策の早急の整備』とか書いてありました。書いてあってもなくても、どーせやるよと私は分かっていましたが。 ですから、件の元首長の言っていることは、どこ吹く風ではあるのです。むしろこんなくだらない応援団にだしにされたサザンオールスターズさんがお気の毒と思いました。


要するに、選挙がどうであっても、声を出したからどうなるってものではなくても、そんなことわかっていても、どうしても黙っては居られなかったのです。あるお方が尊敬する吉田松陰先生には、「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と言う句がありました。


「かくしても、かくならぬとは知りながら、やむにやまれぬ平和主義」です。 おそらく、あの日あの時国会前に居た人たちは、ここで『安保廃案』『戦争反対』と叫んでも、法案が成立することはわかっていたのです。でも、ここで声をあげなければ、絶対に後悔すると思ったのです。美輪明宏さんが仰っています。


「この法案に賛成した議員が最初に、そしてその議員が所属する政党に投票した人」が、率先して『非戦闘地域』に行ってください。私は後悔したくありませんでした。この法律が成立しても、諦めないと決めました。あれだけ無駄⁉️を承知で、多くの人が思いを同じにしたのですから。


 あれから1年が経過しました。9月19日、全国的に安保法制、平和主義に関する集会が開催されました。ある意味、草の根の民主主義に気づかされた、声をあげることの大切さを認識した、諦めないこと、仲間がいるんだと知ったとても重要な歴史的出来事となった2015年9月です。


私は毎年9月は、特に緊張感を持った月にしたいと思っています。

ホトトギスが啼かないとき、待つことができるかどうかでその人の生き方が分かるそうです。

2016年9月20日
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NHK大河ドラマ『真田丸』は、関ヶ原の戦いを終えました。真田昌幸、信繁親子の高野山九度山への配流により、ドラマは、今後高野山中心になるのでしょうか。

私が気になるのは、ようやく?表舞台に出てきた徳川家康の描かれ方です。真田幸村こと信繁の最大の見せ場、大坂冬の陣、夏の陣は、家康抜きには語れません。


『真田丸』では、内野聖陽さんを抜擢して、これまでと違う家康がここまで現れていますが、さて、三谷幸喜ワールドいかがなりましょうか。

以前この『ひとりごと』で、徳川幕府が270年近く続いたこと、その間内乱はなく、また、外国と交戦したこともなかったことについて書きました。それは、徳川家康と言う類まれな辛抱人が、徳川幕府を盤石にしたことが基本的に大きいと申しました。


士農工商の社会で鎖国、しかし庶民はそれに慣れたのか最低限度の生活が出来て反抗せず、また長く戦がなくて、武士階級も官僚化し、財力も幕府が一手に握ってこれまた何ができるものではなく、結局坂本龍馬らの『商売』の結果海外から資金流入があり、幕末そして戊辰の戦が始まって、明治新政府が建設されたと言う理解です。

信長、秀吉、家康の三傑の中で、いちばん人気がないのは家康でしょう。その理由は、明治維新を成し遂げて、太平洋戦争(大東亜戦争)の終結まで強い政治的軍事的影響力を持った薩長を中心とする倒幕勢力が、徳川幕府、特に徳川家康を評価しない喧伝をしていたこともあるでしょう。



でも私が思うに、徹底的に強さで上り詰める信長、人たらしではあるけれども、立身出世の見本でもある秀吉と比べると、「徳川家康って何かしたの?」の感じで、何かパッとしない、知らないうちに天下を取った人、運がいいんじゃないくらいの感覚の方が、少くなくないように思います。

まさにそうだと思います。中学校か高等学校の社会科の教科書で、この3人が、ホトトギスを詠んだ句が掲載されていました。

織田信長  啼かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス。
豊臣秀吉  啼かぬなら、啼かせてみしょう、ホトトギス。
徳川家康  啼かぬなら、啼くまで待とう、ホトトギス。
徳川家康は、狸親父と言われるこどく、何を考えているのかわからないと評されますが、それは自ら動こうとしない、目立たない、しかしなんか結果が出ている、だからづるいとか省エネとか言われるのだと思います。

信長のように、天下を取るため多大な労力をかけ、秀吉のように、天下を維持するため財力をかけるではないので、徳川家康は、『ケチ』とも言われます。

それゆえにか家康のケチには、尾ひれがついているようです。どーせ汚れるから褌は黄色にした、畳は傷つくから裏返しにして繰り返し使用したとか逸話に事欠きません。その中で、家臣には、10万石以上与えなかったと言うのは、ケチと言うよりも、自身を脅かす勢力を作らない対策だと言われます。秀吉は、女性についても豪華絢爛を求めました。


この点、家康を言い当てた有名な言葉がありますね。『家康の後家好み』。決して無駄?なことに、無駄ではなくても、今風に言えば費用対効果の点で、自分は何もいたしません、欲はございませんのような顔をして、うまいところを持っていく、これが端的に表れたのは、豊臣家臣団の分裂から起きた関ヶ原の戦いでしょう。

出る杭は打たれる、目立ち過ぎは妬まれるは、昔から言われることです。桶狭間で、三方ヶ原で、本能寺で、そして関ヶ原の戦いと、家康にはギリギリのところで何もしないのにラッキーがもたらされています。むしろ目立たない、何もしないように見られることが、究極の省エネであり、勝利かもしれません。


だからこそようやくもたらされた我が世、ここで決して豪華絢爛、無駄遣いはしません。家臣に多くの石高を渡さなかったことがケチのようで、盤石な基盤を構築したわけです。現代社会でも、大盤振る舞いした有名人が、気の毒な末路に至ったケースを聞知します。ケチとは、出すべきところで出さない、世間の常識から受け入れ難い場合を指すのだと考えます。


徳川家康は、経済的には倹約家、政治家としては、身の丈に合った生き方をしたとも評価できるでしょう。何もしなかったのではなく、無理せず用意周到に、周りが潰れるのを待ったようです。

ケチと聞くとなんか蔑視の意思が含まれている感じがします。でも、好き嫌いはともかく、徳川家康を軽蔑する人はいないでしょう。


それは今風に言うケチではなかった証左では。コツコツぶれずには、現在の成功者に通じる生き方です。そして問題は解決しています。

私がしばしば依頼者に申し上げるのは、ケチっては解決しない、しかし焦って急いでも解決しないと言うことです。徳川家康は、結果的に幸運だったのではないと思います。ひとつひとつ計算して、じっくり確実に事を運んだと理解します。


現に270年間紛争なく持ちこたえたのです。『人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。』重みのある生き方ですね。

福本悟には、『立川高松間』と『三島沼津間』に違いがあるのです。

2016年9月16日
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昔鉄道少年だった私は、時刻表を眺めるのが好きでした。


地理も好きで、良く地図を見ていました。その経験が、大人になって役に立っているのです。事務所で依頼者とお話しするとき、出身地等の地名が出ると、だいたいわかるので会話が続き、リラックスしていただけます。また、出張先で交通機関にアクシデントが起きたときでも、臨機応変に対応できます。



例えば数点前、除雪が追いつかず、滑走路が閉鎖されて新千歳空港に着陸できず、函館空港に連れて行かれたとき、航空会社は、函館札幌を結ぶ特急『スーパー北斗』を案内しました。しかし、私は函館空港から、札幌市内にある丘珠空港に向かいました。
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いつかこの『ひとりごと』で、ひと駅の面倒をお話ししたかもしれません。それはしばしば行き来する立川の裁判所の場合に感じることです。東京都内の地方家庭裁判所は、23区と島嶼部は霞が関にある本庁、それ以外の地域、つまり三多摩地域を管轄するのは、東京地方家庭裁判所立川支部なのです。



JR立川駅から、多摩モノレールで1駅行った『高松』で下車します。1駅乗るために、10分間隔のモノレールを立川で待つことになります。ところで、鉄道では現在も、『1駅』しか運行されない列車がいくつかあるのです。


このうち、始発駅と終着駅が隣り合わせの路線もあります。例えば、兵庫駅と和田岬駅、鳳駅と東羽衣駅は、1駅間を結ぶ路線です。線路は続くよどこまでもではありませんが、まだ先があるのに、1駅行ったら終点になる電車があるのです。今日は、そのお話です。これは、時刻表に詳しい人は、すぐにいくつかピックアップできるでしょう。


なぜひと駅だけ運行させるのか、いろいろ事情はあるのでしょう。典型的なのは、車庫に入れるために行われる場合です。常磐線の水戸駅と勝田駅間なんか、この例ですね。


新幹線が1駅と言うのもあります。福岡県の方ならよくご存知の博多駅と南博多駅間の博多南線と言う新幹線車両を使用した在来線は有名ですね。これは、車両基地に回送する車両を、福岡市内中心部への住民の足として使用したケースです。


新幹線そのものの『1駅』の運行は、山陽新幹線の小倉駅と博多駅間、九州新幹線の川内駅と鹿児島中央駅間がよく知られています。

その路線としては、始発と終点ではないのに、時刻表を見ると、いくつか『1駅』間のみ運転される電車に気づきます。先の常磐線水戸駅と勝田駅のほかにも、中央本線の茅野駅と上諏訪駅、鹿児島本線の下関駅と門司駅、日豊本線の宮崎駅と南宮崎駅、奥羽本線の青森駅と新青森駅等あります。なるほどねーと納得された方もおられるでしょう。


この形態の『1駅』の運転は、比較的大きな駅、起点となるような駅間で行われていることと言えましょう。

この観点から、特徴的な『1駅』の運転が見られる路線があります。それは東海道本線の三島駅と沼津駅の運転です。1日に何本も運行されています。この『ひとりごと』でも、いつかお話したと記憶していますが、人口が多く、古くから静岡県東部の商業物流の中心となっていた沼津市、その玄関口JR沼津駅には、新幹線は停車しません。そもそも沼津駅近くを新幹線は通りません。



それは、レールを沼津駅方向に伸ばすと、新幹線の速度はかなり落ちることと、その名のとおり湿地帯があって、新幹線を通過させるには、難工事が予想されたので、東京オリンピック前の東京新大阪間全面開通が急務であったことから、新幹線は、沼津を通らない結論となったのです。新幹線が開業して何年か経って、近くに新幹線車両基地がある三島駅に、新駅がつくられました。三島は、西伊豆への入口で、箱根や富士五湖方面にもバスがありますが、沼津の代わりとなったことは、否定できないと思います。

私は、沼津市に用があるときには、新幹線で三島駅を利用します。三島駅で新幹線を降り、東海道本線に乗り換えするとき、『沼津行き』に当たることがあります。そんなとき、三島駅発沼津駅行き電車は、また、その逆は、『新幹線リレー号』のような感じがするのです。新幹線リレー号とは、東北上越新幹線が大宮駅発だった時代、上野駅から大宮駅まで、新幹線に乗車する人のために、新幹線につながると言う意味で走行していたのでした。


立川の裁判所に行くときの『1駅』は面倒だなと感じますが、三島駅沼津駅間の『1駅』は、私のような利用をする人がかなりいて、悪い気がいたしません。

そして今日も、三島駅から、沼津駅行きに乗車しました。車掌さんが、「この電車は、東海道本線下り沼津行きです。当駅を発車しますと、次は終点の沼津です。」とアナウンスするのが、なんとも貴重な経験をしたように思えます。



沼津での用が終わって三島駅からの帰りは、新幹線ホームで、沼津市に本社がある桃中軒の駅弁『港あじ鮨』を買いました。三島も沼津も、私からするとあまり変わらないです。そして昼間、帰りの新幹線の中で口に入ったのは、港あじ鮨だけではありません。これだから新幹線はチョットなのです。無論悪いのは私です。