久しぶりの東海道新幹線ひかり号に乗車して。

2016年7月22日
テーマ 
東海道・山陽新幹線は、『のぞみ号』が主力です。その他には、『ひかり号』と『こだま号』があります。


いつからのぞみ号が中心になったのか、はっきり覚えておりませんが、東海道・山陽新幹線は、『ひかり号』『こだま号』からスタートしたことは間違いありません。東京オリンピックのとき開業した東海道新幹線、当初は、東京と新大阪駅間を4時間くらいで結んでいたと思います。その後長く『3時間10分』が続き、昭和の代名詞でもあり、夢の超特急と言う言葉が流行りました。


IMG_0851
東海道新幹線が、岡山駅まで繋がって、新大阪駅から先は、各駅停車のひかり号が生まれました。そして昭和50年、遂に山陽新幹線が、博多駅まで繋がり、私は、司法修習生だった昭和50年代、何回か東京博多間を『ひかり号』で踏破したものです。あのころ、山口百恵さんの『いい日旅立ち』の歌に乗せられて、『ひかりは西へ』が流行っていたと思います。



ただ、新幹線博多開業の後、新大阪博多間が各駅停車になるひかり号が現れるなど、いろいろな系統のひかり号が運行され、面倒を感じた方もおられたと思われます。それで、山陽新幹線を使ったトラベルミステリーが、人気を博した理由にもなっていたと思います。


その後東京新大阪間は、3時間の壁が破られ、最速の『のぞみ号』が登場しました。それで、特に新大阪以降の駅をたくさん停車するひかり号は、いつしか減らされ、ほとんどが、新大阪駅を始発とするようになり、各駅停車は、『こだま号』に取って替わられました。



それでも新大阪博多間は、ひかりレールスターなる『ひかり号』があったのですが、九州新幹線博多鹿児島中央間全線開通により、『さくら号』が新大阪駅から運行されるようになって、さらに『ひかり号』は、見られなくなりました。現在では、東京新大阪駅または岡山駅まで、1時間に2本程度『ひかり号』が運行されているのです。
IMG_0839

 

『ひかり号』の歴史をご存知ですか?戦前日本が、朝鮮半島に権益を有していた時代、大陸への入口釜山から、朝鮮総督府鉄道として、満州国の首都新京、現在の中国の長春を経由して、ハルビンまで約1.000キロを、21時間掛けて、急行列車として運行されていたのが『ひかり』でした。



なお、同じ区間に、『のぞみ』の名称の列車も運行されていたそうです。これが南満州鉄道です。そして1992年平成4年に、1945年以来数奇な運命を超えて、『ひかり号』と『のぞみ号』は、再会したのでした。かくして平成の時代、『のぞみ号』が、『ひかり号』に取って替わったことは、否定できないでしょう。 平成の雄がのぞみ号なら、昭和の雄はひかり号です。東京の公立中学校では、京都奈良に修学旅行に行きます。このとき初めて新幹線に乗る友もおります。




私のころは、ひかり号でした。大阪より先に行くときには、今では航空機を利用しますので、私は、あまりのぞみ号には縁がないのです。昭和の代表ひかり号を懐かしむ歳になったようです。そのうち、ひかり号そのものも、消滅してしまうのではないかと気になっているのです。 そんな思いでおりましたら、たまたまひかり号に乗車する機会に恵まれました。東海道新幹線は、JR東海が運行しております。JR東海の本社がある名古屋からの帰路、ちょうど折良くひかり号に当たりました。東京新大阪間のひかり号は、のぞみ号停車駅の品川、新横浜、名古屋、京都以外にも、いくつか停車するので、ひかり号がのぞみ号に追い越されることがあります

。それで名古屋から東京に向かうのに、ひかり号に乗車する人はあまりおられないと考えられます。 ところが、この日乗車することになったひかり号は、途中停車駅で、後から来るのぞみ号には、追い越されることがありませんでした。この日のひかり号は、昔のひかり号だったのです。何か童心に帰った気持ちでしたが、子どものころは、新幹線の車内、右手にビールはありませんでした。


こちらは変わっても、新幹線ひかり号は、変わっていないと思いました。たまには新幹線もいいですね。