大阪京都と東京、東本願寺と西本願寺。実は仲が悪いのではありません。

2016年9月28日
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今日は少し浄土真宗のお話をさせていただきます。

 

開祖親鸞聖人、そして中興の祖第8代蓮如上人のころは、浄土真宗はひとつでした。

 

親鸞聖人が1262年に90歳で没したのは、現在の京都市中京区の押小路と言う場所ですが、現在の京都東山にある『鳥野辺』なる場所で荼毘に付され、近くの『大谷』に墓所を設けたそうです。数年後親鸞聖人の末娘覚信尼により、この地に『大谷御廟』が建立、1272年ころより、この地が『本願寺』と称されるようになったと言うことです。

 

親鸞聖人の御影像を移すなどし、現在の西本願寺に残る御影堂、阿弥陀堂の元となるお堂もできました。しかしその後比叡山からの圧力等もあり、また、各地に分派した勢力内の争いもあって、本願寺は、やや廃れた感となったようです。そして1465年第8代蓮如の時代に、本願寺は、比叡山延暦寺により破壊され、蓮如は近江国に逃れ、その後北陸方面で布教を行い、蓮如上人は、浄土真宗の中興の祖と言われたのです。 やがてときは戦国時代、第11代の顕如までは、その教えから、巨大集団となった浄土真宗は、ときの権力者から、敵視されることになります。

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すなわち人々には上下はなく、支配し押さえつけられることはない、常に阿弥陀如来により極楽浄土で生きることが保証されているとの教えは、力で支配を強める戦国武士団には相容れず、権力者からの解放と言う精神的支柱になっていったからです。関東の北条氏、薩摩の島津氏等長きにわたって領内での真宗は禁教とされ、徳川家康に至っては、若いころから浄土真宗を禁止していたと言われます。悪人正機説や即応成仏の思想は、戦国大名には馴染まなかったのでしょう。

そんな中で、越後の上杉謙信や越前の朝倉義景は、浄土真宗の理解者とされていて、また、中国地方を治めた毛利氏も、浄土真宗とはむしろ手を結ぶような政策を取っておりました。そんなところから、稀代の天才かつ狂人?革命児織田信長は、徹底的に浄土真宗を嫌い、10年におよぶいわゆる『石山合戦』が繰り広げられるのでした。 蓮如上人は、第9代宗主、現在の浄土真宗では門主と言われる教団トップを五男実如に譲り、自らは、大坂石山に隠居所を設けました。大阪御坊と言われる大阪の地に、これが契機に本願寺は移りました。

こうして『石山本願寺』が出来上がったたのです。石山本願寺の前には、町が広がり、寄進もあって、石山本願寺は、相当広い堅固な牙城のごときシンボルとなっていたとされます。これを自分よりも強い、巨大な存在を、信長が許すはずがありません。また、大阪は、西国への入口、毛利水軍と親交がある石山本願寺は、信長にとっては許すべからざる存在でありました。ただ本願寺は、武装集団ではありません。ここに信仰のために集まる者に対して、自分こそ神と信じている信長をしても、一気に攻め込むことはせず、石山本願寺の明け渡し、他所への移転を求めていたのです。

 

最終的には、調停の仲介もあって第11代顕如は、1580年に石山本願寺を明け渡して、紀州の地に本願寺を移す和解を織田信長との間で取り交わしました。これが石山本願寺10年戦争と言われるものです。 ところで、顕如は12代となる長男教如とともに徹底抗戦を唱えておりましたが、やがて信長との和睦に傾いたところから信長を徹底的に嫌う長男教如らは、やはり徹底的に交戦する意思を固め、必ずしも徹底的に抗戦する意思を強め、宗主の顕如の判断に納得していたのではないとされます。

 

それで信長との和解により顕如が石山本願寺を去った後も教如ら一部強硬派は居残り籠城、顕如は教如を義絶しました。これが本願寺が『東本願寺』と『西本願寺』に分かれた遠因とされます。

結局教如も、京都の公家らの説得を受けて数ヶ月後に石山本願寺を退去します。しかし退去のその日、石山本願寺は火に包まれ炎上、この巨大な建造物は消失したのです。そしてその1年少し経った日に、本能寺の変が起こりました。それを契機に朝廷の取りなしで、顕如と教如は和解し、ともに寺務を行うことになりました。

そして翌年石山本願寺の跡地に豊臣秀吉により、大阪城が築造されたのでした。
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石山本願寺そのものは無くなりましたが、秀吉の時代になり、本願寺は活動の再開ができました。石山本願寺の跡地に秀吉が大阪城を築造したことが影響しているのかどうかわかりませんが、本願寺は、大阪の地に復活、最初は元石山本願寺の末寺で布教していたものの、数年後には秀吉の寺社寄進により、現在の大阪市天満に阿弥陀堂と御影堂が設けられ、ついで1592年、天下統一した豊臣秀吉により、京都の地に本願寺は寄進を受けました。

これが現在の『西本願寺』の場所であります。

本願寺の京都の移転とほぼ同時期に、信長らとあいまみれて戦国時代を生き抜いた顕如が亡くなり、教如が本願寺を承継しました。ところが、かつて教如をして強硬路線に転じさせた側近が『復権』しました。これに不安を感じた顕如の正室で、教如の母である如春尼は、顕如の遺言だとして、三男の准如を第12代にするよう豊臣秀吉に直訴したと言われます。

これを受けた秀吉は、教如を大阪城に呼び、穏健に勤め、10年後には弟にあたる准如に宗主を譲るよう申し渡しました。しかし、教如の側近が反発したことから、教如は秀吉により排斥されました。准如が第12代となり、教如は、本願寺の端っこの場所で『裏方さん』として、布教活動を行う日々になったと言うことです。

失礼を承知で申しますと、ある意味、豊臣秀吉により宗主となった准如は、かつて教如を支持した一部僧侶門徒からは、秀吉に降参したものとみなされ、もともと存在しないではなか った本願寺の内部分裂が、加速する気配が漂いました。もっとも、教義が異なるわけではなく、ともに親鸞聖人蓮如上人らの教えを広めることには変わりはありません。

ですから本願寺内部、浄土真宗が分裂することはありません。しかしこれに目をつけたのは、徳川家康でした。西本願寺にある国宝飛雲閣は、秀吉が贅を凝らした聚楽第の遺構とも言われるのは、准如との関係があったからだと言われます。

秀吉の死後、もともと西国の信者が多い浄土真宗でしたから、関ヶ原の戦いでは、西国武将が多く含まれていた西軍に味方したように、家康には映りました。家康は、教如を本願寺の宗主にしようとしたところ、側近の本多正信は、既に信長のころから本願寺は、准如を中心とする表派と、教如を中心とする裏方に分かれているから、教如を徳川幕府が推して、本願寺を一本化する必要はない、むしろ『分裂』を加速させるべく、准如らの関ヶ原の戦いの責任を取らせない代わりに、反対に、教如には土地を与えて浄土真宗を布教させるかたちを取らせ、浄土真宗本願寺の力を弱めた方が良いと意見したと言われます。

それで教如は、堀川七条の本願寺の端っこにあった隠居所から、本願寺から少し離れた六条烏丸に移り、ここに本拠を置き、翌年親鸞聖人の木造を迎え、『本願寺』を称することになりました。すなわち、准如を12世宗世とする本願寺教団と、教如を12代宗主とする本願寺教団の2つができました。秀吉の寄進により建築された本願寺の東側に、もうひとつ本願寺ができました。

それで教如を宗主とする本願寺を『東本願寺』と言うようになりました。これに合わせていつころからか、もともとの本願寺は、『西本願寺』と呼ばれるようになったと言うことです。東本願寺は真宗大谷派、西本願寺は、浄土真宗本願寺派となるのです。

ふたつの本願寺、どう違うの?ですが、浄土真宗本願寺派の門徒である私も、よくわかっておりません。本願寺派は焼香は1回、南無阿弥陀はナモアミダブツと唱えることくらいでしょうか。世間では、本願寺派=穏健派、大谷派=武闘派、あるいは
ハト派とタカ派に例えられることもありますが、浄土真宗内部では、そのような意識はないでしょう。西本願寺が、尊皇攘夷運動を応援していたと言われるのは公然の秘密?ですが、東本願寺も幕末時には、倒幕派と気脈を通じていました。

ちなみに、かつての長州、山口県の浄土真宗の門徒は、100%本願寺派と聞きました。反対に、関東には浄土真宗本願寺派は少ないのは、徳川幕府の影響だと言われます。1617年本願寺の別院として、本願寺派の寺院が、江戸浅草にできました。明暦の大火で消失後は、江戸幕府は建築を許さずしません。そこで門徒たちが集まって、海を埋め立てて築造されたのが築地本願寺でした。築地とは、浄土真宗の門徒たちが土地を作ったことから名がつきました。

今、臨海副都心の埋め立てが東京では流行っています。最近では、豊洲市場の移転に関して、都民の間でようやく問題点が露にされたようです。徳川幕府、冷淡に扱った浄土真宗本願寺派が、まさか海の上に寺院を作るなんて想像していなかったのかもしれません。東京都庁も、まさかあんなところに埋め立てしたことで、都民から糾弾されるとは思っていなかったのかもしれません。バレないだろうと。

真宗の信者たちは、阿弥陀如来に手を合わせると、自分は何もしなくても、本願力により救われると思っています。でも、都民のために仕事をすべき都知事をはじめとする都庁の皆さんは、何もしなくても、また、何をやっても救われないことはないとでも思っていたのでしょうか。必死にやることで、神仏は、思し召しをくださるのだと思います。

京都から帰ってテレビを見ての感想でした。もっと本願寺を勉強したいです。