真田幸村も、五代友厚も、出身地とは違う場所で活躍し、慕われています。

2016年6月27日
人気が続くNHK大河ドラマ『真田丸』は、天下統一を果たした豊臣秀吉の近くにいる真田幸村こと信繁を描いております。

織田信長を苦しめた石山本願寺があったとされる土地に築造されたのが大阪城です。豊臣秀吉は、大阪を中心に政務を摂ることになります。大阪は、御所のある京都、そして商都堺にも近いことも、この場所を大きな街にした理由になるのでしょう。

大阪城と言えば豊臣秀吉を思い出すでしょう。

ちなみに、私は、大阪城天守閣には、入ったことはありません。大阪家庭裁判所からは、歩いてすぐの位置にあるので、敷地内を通行したことはあります。でも、豊臣秀吉が好きではないからなのか、お城には、上がっていないのです。井伊直弼の彦根城、松平容保の会津鶴ヶ城には、上がっています。関東の人間ですが、徳川幕府贔屓ではありません。ちなみに、『大阪城ホール』には何回か行きました。コブクロのライブです。

『真田丸』とは、真田幸村が、大阪城攻防戦の折築いた出城です。関ヶ原を契機に、いったん大阪からも、表舞台からも離れる真田幸村ですが、豊臣秀頼に恩義を感じ、また、父真田昌幸以来の宿敵徳川家康を倒すため、大坂の陣に参陣します。信州上田とともに、大阪は、真田幸村ファンには、ぜひ訪ねてみたい場所です。真田幸村が、出身地とともに、活躍の場、大阪の人となったように、大阪で活躍した人と言えば、すぐに名が挙がる方がいるでしょう。記憶に新しいNHK朝ドラ『あさが来た』の『五代様』こと五代友厚さんです。

五代友厚さん、五代さまは、江戸末期から明治中期を生きた元薩摩藩士で、維新後は実業家、大阪経済を立て直した大阪経済人の重鎮のひとりとされます。五代さまは、薩摩藩時代、つまり幕末までと、大阪時代、つまり明治維新後と、活躍の場、その役割功績は、分けて考えるでしょう。

10代で、藩主名君島津斉彬公より、世界地図の模写をさせられ、ついで当時国内では、いちばん世界に近いと言われた長崎に出向いて海軍伝習所に入所、上海留学時には、高杉晋作と出会い、そのころから開国論に転じました。生麦事件に端を発した薩英戦争では敵視されてしばらく薩摩を離れ、慶応元年に、薩摩藩遣英使節としてイギリスに出発、欧州諸国を見て学び、これが後の五代さまの礎になったことは間違いありません。

帰国後は、倒幕運動に加わり、大久保利通の信任厚く、参与事務外国掛となって大阪に赴任したことが、五代友厚大阪物語の始まりとなります。

その後の五代さまの大阪での活躍、尽力と、大阪の人々から向けられた敬慕の念等は、『あさが来た』で、もうわかりきっています。ここでは、省略します。大阪証券取引所、大阪商工会議所、大阪商船や南海電気鉄道の設立にも影響を与えました。

先日鹿児島出張の機会に、鹿児島市内の朝日通りにある五代友厚像を写メしました。そして、今日の大阪出張を利用して、大阪市内に3つあると言われる五代さまの銅像のうち2つを、写メしてまいりました。
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ひとつは、大阪取引所前に聳え立つ高さ7.6メートルの銅像です。大阪の街、巨大な商業都市を見据えるスケールでした。五代友厚が、大阪の人々に愛されていたことがわかるというものです。もう一つ、それはすぐ近く、土佐堀川を挟んだ対岸は、中之島を挟んで大阪の裁判所になるある証券会社の入り口にありました。こちらは、ヨーロッパに行ったころの20代の五代さまらしく、イケメンですね。あと一つは、大阪商工会議所前にあるそうですが、時間がなくて行きませんでした。でも、なんで五代さまを追いかけるのか、自分でもやっていることが、理解できていません。

五代友厚も、真田幸村と同じ、出身地ではない場所で花を咲かせ、慕われていたのです。先日の真田丸、徳川家康の力を恐れた豊臣秀吉が、家康には、三河を返上させ、旧北条領となる関東へ追いやったところがさりげなく出ていました。

曰く、「江戸もよいところ」。こうして江戸が、やがて東京ができました。「なにわのことは夢のまた夢」だった秀吉のころ栄えた大阪、その後徳川の世となり、明治には、東京遷都となって、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」の大阪経済を立て直し、今日の大阪を作ったのは、五代友厚でした。その土地に根付いた人により、街の発展はなされるとは限らないと知る契機となりました。

さて、東京。その土地の恩人って誰?考えたことなかったです。太田道灌、徳川家康、西郷隆盛と勝海舟、最近では、石原慎太郎氏や舛添要一氏となるんでしょうか?五代さまの前で、つまらないことを?を考えてしまいました。