辺野古沖移設問題について(その1)

2015年4月14日
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ひところ刑務所の移転運動が相次ぎました。

今もあるのかもしれませんが、むしろ刑務所の収容人数の増加や高齢化の問題に隠れたのか、あまり聞かなくなりました。
犯罪は減ったのに、厳罰が進んだ影響があると思います。

網走番外地ではありませんが、刑務所は、もともと人里離れた場所に開設されました。ところが市街化の影響で、刑務所周辺まで人口が密集して来て、刑務所に対して「出て行け」となるのです。商業地域のマンションの区分所有者が、自室の前に大きなマンションが建設されたとき、資産価値が下がると主張されたのを思い出します。
写真1 H27.4.9
沖縄県宜野湾市にある普天間基地は、市街地にあり、世界一危険な基地と言われます。
現在基地の周りには集落が密集しておりますが、基地が運用開始された1945年まさしく終戦時には、この場所は小高い丘であり、集落はありません。

さて、私は、基地があると知って周辺に来たのだから、それは『自己責任』、普天間基地の危険性を言い、基地移転を求めるのは自己チューだと言いたいのだと思われますか?



普天間基地移転の代替施設として、沖縄県名護市の辺野古沖が選択肢に挙げられ、今なお『辺野古問題』が『解決しない』のはなぜなのか?は、この『問題』が発生したのは、どのような経緯だったか、そもそも普天間基地の成り立ちは?あたりに原点があると思っています。

これから政治的素人のひとりごと繰り言を書き出しす。お付き合いいただけるでしょうか?
今から20年前の平成7年、沖縄米兵少女暴行事件を契機に、当時社会党出身の村山富市内閣総理大臣のもと、日米で、沖縄米軍施設区域等を検討する特別行動委員会(SACO)が設けられ、市街地にある普天間基地の移転問題が検討されることになりました。

ついで内閣総理大臣に就任した橋本龍太郎自民党総裁が、1年後の日米首脳会談で、予めペーパーになかった普天間基地の返還の必要性を訴えたあたりから、『普天間基地の返還問題』がクローズアップされるようになったと記憶しております。


ちなみに、橋本龍太郎氏は、海軍軍人だった叔父が、父親の再婚に反対していた橋本龍太郎氏に対して、両親を大切にしなければならないと言い残して沖縄で戦死したことから、継母を終生大切にしたことで知られており、沖縄の歴史については、かなり勉強していたと、当時の総理大臣主席補佐官を務めた江田憲司現維新の党代表の後日談であります。

すなわち、辺野古沖移設は、もともと普天間基地の存在、さらに言えば、戦後米軍基地が沖縄県内に集中して存在すること自体が問題だとされた経緯があり、初めから普天間基地の代わりにどこかに基地を、まして沖縄県内にそれを開設するとは、タイアップしていたものではなかったはずです。

4月1日は、先の大戦で、米軍が沖縄本島に上陸した日です。今月、安倍内閣の官房長官が、返還が決まった普天間基地に関する式典に出席されました。

翁長沖縄県知事は、普天間基地は、当時の小高い山、自然が残る地域を銃剣で強制的に軍用施設が作られたのであって、土地を戻すことは当たり前、『その代わり……」が議論されること自体納得出来ないと言われました。

そうです。

国有地に刑務所を開設したが、その近くに都市化の波が押し寄せて住宅地になったのとは異なります。

もともと普天間基地のある場所は、沖縄の人たちの土地だったのです。自分たちのふるさと近くに集まることは当たり前だと思います。確かに代替施設を用意することは、先のSACOの平成8年にまとめられた中間報告に盛り込まれてはありました。

しかし、沖縄県内にとは記載されません。当時は、アメリカではオーストラリア、日本国内では、北海道や高知県あたりが検討対象として上がっていたと言われます。

なぜ沖縄県でなければならないのか、なぜ名護市辺野古沖でなければならないのか?

今ではさも当然のごとく言われていることは、検証される必要があると思います。これなくして、沖縄県が、日本国の一部であると、私たちは言えるでしょか。


このひとりごと、まだ続きます。