普天間基地移転に伴う代替基地をどこかに確保すると言う日米間の約束事は、沖縄米兵少女暴行事件の発生を契機に起きた普天間基地の返還要求運動が始まった翌年、内閣総理大臣に就任した橋本龍太郎氏時代にもう、規定事実とされていたと思われます。 村山内閣時に発足したSACOの中間報告では、普天間基地の全面返還を目指すことと併せ、十分な代替施設を用意すること、その施設として、海上ヘリポートへ移設を検討すことが明記されており、前回のひとりごとでお話したように、歴代自民党総裁の中では、沖縄問題には特には熱心だとされ、総理大臣就任直後、わざわざアメリカまで行って、「普天間基地移転返還問題』を、急遽首脳会談の議題に挙げた橋本龍太郎氏をしても、はじめに結論ありきだった感は否めません。 そして、平成9年ころには、当初は、辺野古沖とは明示されていなかったと思いますが、沖縄県東海岸、キャンプシュワブあたりを米軍は考えていることは、報じられておりました。 実は平成9年には、当時の名護市長が、基地受け入れを表明しており、翌年の沖縄県知事選挙では、大田昌秀知事を破って、自民党の応援を得た稲嶺恵一氏が沖縄県知事に就任したので、現在の辺野古沖移設問題は、とうの昔に解決してもおかしくないと、『本土』の人間なら考えてしまいそうです。 たまたまですが、私は、平成10年の沖縄県知事選挙戦の最中、那覇市に滞在していたのですが、大田昌秀氏の腰が低い物腰柔らかく、語りかけるような対応が、心に残っております。 また、NHK朝ドラで『ちゅらさん』が放映されていた平成13年には、辺野古沖を臨む大浦湾に行き、反対派の看板等を目の当たりにしました。 私の印象は、辺野古問題は、年を追うごと、現地沖縄県では、反対する方が増えているように思います。 実際、名護市長は反対派の稲嶺進氏が再選を重ね、沖縄県知事は、政府から基地軽減政策なるものを示されて、『驚くべき立派な内容。これでよい年が迎えられる」と安倍内閣に賛辞を送った仲井真知事に代わり、昨年12月より、もと自民党の翁長雄志氏が務めております。 そして沖縄県選出の衆議院議員は、ひとりも選挙区では自民党は議席を獲得できません。 どうしてこうなったのでしょう? 私は、まさしく翁長知事が仰ったように、政府与党の『上から目線』、初めに結論ありきの傲慢な態度が、沖縄県民の反発を買っているのだ感じます。 ちなみに、翁長知事が仰った政府が繰り返す『粛々と進める』なるもの言いは、完全な上から目線だと言う指摘に対して、ネット上では、「翁長知事こそ、粛々の意味を国語辞典で調べろ!」なんて意見が寄せられているようです。 こんなこと、悲しいですね。 繰り返される沖縄県民の意思、民意を無視して、「粛々として進める」との発言態度が、沖縄県民をなめ切った、バカにしていると取られても仕方ない不遜な対応に受け取れると言う意味で、「上から目線」なる表現を使われたのであって、粛々の単語が気に食わないと言っているのではないでしょう。 国民の多くは、基地と向かい合う生活をしておらず、所詮自分たちの問題、特に民主主義とは何かを端的に示す問題だとの実感がないのだと思われます。 今度は、沖縄県の歴史から見たこの問題を考えたいと思います。