放課後の小学校の校庭で、サッカーのフリーキックの練習をしていた小学生が蹴ったボールが、ゴールネットの上を超えて、敷設されたフェンスや門も越えて道路まで転がり、たまたまバイクで通りかかった人が、これを避けようとしてバイクもろとも転倒して骨折、その後死亡した事故を巡って、この小学生の両親に対する被害者の遺族から求められた損害賠償請求訴訟の判決が、最高裁判所から言い渡されました。 民法の責任無能力者にかわる監督責任が問われる事案ですが、最高裁は、第1審および原審となる高裁の判決を取り消し、被害者遺族側の請求を棄却しました。 つまり、この小学生の両親は、この事故に関して、法的責任を負わないと言う結論です。 街の声は、概ね最高裁判決に肯定的です。 これを報道したあるテレビ番組では、とある方向から、しばしばバッシングされているキャスターが、こんな当たり前のことが、何でこれまで認めれていなかったのだ!と呆れておりました。 『こんな当たり前のこと』であるがゆえに、司法の役割、過去の裁判例から、考えてみる必要がありそうです。 民法は、文字通り市民と市民の間を取り決めする法律です。市民は、ときとしてその好まざる経緯により、被害者と加害者になってしまいます。 この間を規律するのは法令でありますが、両者のバランスを取り、公正正義に立脚して、具体的事案に対する判断が求められます。 ここでは、何の落ち度もない被害者がかわそいそうとの視点があります。 また、自分の手の及ばないこと、どうしようもないことについて、責任は問われないとの視点もあります。 これまで、被害者保護の視点が強く、幼児等責任無能力者が故意または過失により引き起こした事故に関しては、ほぼ例外なく、両親等の監督責任が認めれておりました。 ある意味、被害者救済の方向性が強かったと言えます。 監督責任を怠っていなかったとの抗弁は、ほとんど認めれられませんでした。 それでは本事例で、親はどのように子を監督しなければならなかったのでしょうか。 事故を起こさないためには、校庭でボールを蹴るなでしょうか。ゴールネットに確実に放り込みよう、もっと技能を磨けでしょうか。校庭の外、道路を遥か彼方から通行してくる人車がないか確認してから蹴れでしょうか。はたまた校庭では、ボールを蹴るなでしょうか。 判決は、通常は人身に被害が及ぶものとは認めれない行為によってたまたま人身に被害を発生させた場合には、当該行為について具体的に予見可能であるなどの特別な事情が認めれられない限り、監督責任を負わないと判断しました。 この小学生の両親は、日ごろから一般的に危険な行為に及ばないよう厳しく躾けていたとのだから、『本件事故』に関しては、監督責任を果たしていないとは言えないとされました。 平たく言えば、校庭でゴールネット目掛けてサッカーボールを蹴ったことで、第三者が死亡することの具体的予見は不可能と言う判断でしょう。 この判例の示した基準、と言っても、予見可能性とか、特段の事情の有無とか、この業界に馴染みがない方には、だからなんなの?のお声が聞かれそうなよく分かりにくい基準ですね。 要は、具体的事案に則して、ケースバイケース、私が日ごろ言うところの紛争が発生した具体的場面では、法律も判例もない、あなただけの事実、これは変えることは出来ないことを前提に、どうしたいのか、どうすれば良いのか、あなたにとっての到達点は何なのか、これを目指して依頼者と弁護士が信頼関係を持って、ブレずにやり遂げることに尽きるのだと思います。 実は、私が関心を持った、感心したのは、この小学生の両親とその代理人弁護士の出されたコメントです。 担当弁護士は、「子どもがボールを蹴った、他人が死亡した、当然親の監督責任となると言うのは違うのではないか」とずっと引っかかっていたと述べられました。 両親は何がいけなくて、どうすれば回避できたのか、最高裁に上告することは躊躇したが、どうしても蟠りは消えなかったようです。 そしてこの両親は、現在23歳になったこの小学生の思春期青年時代を通しての苦悩を振り返りつつも、この事故で亡くなられた被害者がおられることは、決っして忘れられるものではなく、自分たちの道義的責任が消えることはない、この先も、終わることのない苦悩が続くのだと言われました。 巷では、裁判を勝ち負けで捉える風潮があります。 勝ち負けと競争は、私が嫌いな言葉です。 私自身、このようなご質問を受けた場合には、勝ったことも負けたこともありませんとお答えします。 事案が解決すると言うことは、ある意味ひとつの到達点節目に過ぎす、都合よく申せば、セレモニーの類だとも評せましょう。 自分の依頼者そして相手方には、ここに至っても戻らないもの、失ったものはあるのです。 ひとつの結果は結果であって、やっと解放される思いはありますが、トラブルに巻き込まれた人は、それ自体が災難であり、結果が出たからと言って、大はしゃぎする気は起きないのです。 まさしく『粛々と』受け止めるだけだと思います。 この事案は、このご両親と代理人弁護士だったからこそ、今後の監督責任に少なからず影響を与える一穴となったのではないかと思いました。ここから気づきその他の事柄についても、またお話しするかもしれません。