年が明けると『箱根駅伝』があります。 東京大手町と箱根町芦ノ湖の間の10区間を各大学が襷を繋いで往復する陸上競技です。この10区間のうち最長距離であって、高低差800mを一気に駆け上がる5区通称山登りがハイライトで、『山を制する者は箱根を制する』と言われ続けております。 今年もそうでしたね。この5区のスタート地点が小田原市です。今日は、小田原に行って来ました。 小田原市のシンボルともなっているのは小田原城です。最初の築城は知りませんが、戦国時代北条氏の居城だったことで知られます。 天下統一最後の仕上げとして豊臣秀吉が大群を率いて小田原城を取り囲んだ様子は、昨日のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも放映されましたね。 この小田原戦のとき、城に篭って動こうとしない北条側を驚かせたのが、黒田官兵衛の策と言われる『石垣山一夜城』でした。 小田原城から3km程離れた石垣山に密かに出城を作り、これが完成した途端に周囲の樹木を取り払ったことから、小田原城の北条側は、一夜にして城が現れたと驚き、戦意を喪失してやがて和議となったと言われます。 この石垣山一夜城と合わせてこのとき故事ともなったのが『小田原評定』でした。 武田信玄、上杉謙信でも落とせなかった小田原城が難攻不落と信じていた北条氏側では、「城から出て野戦に持ち込むべし」「いや、難攻不落のこの城で戦うべし」と重臣たちによる評定が繰り返されたが、結局何も決まらなかったと言われます。 ここから、いつになっても結論が出ない会議や相談のことを指して、『小田原評定』と揶揄されるようになったのでした。 このように言うと、北条早雲以来この地を収めていた北条氏は無能だったかに聞こえるかもしれません。 ですが、結果としてほぼ無血開城となりました。ここには、黒田官兵衛の知略と温情があったことは否定できませんが、戦乱の世で、長くこの地に戦火を齎さなかった北条氏の最後の決断は讃えてあげて良いと思います。 島津氏や伊達氏に対する豊臣秀吉の処置と比較されると氏政切腹、氏直追放により没落した北条氏は哀れを誘わずにはいられませんが、豊臣秀吉の中には、脅威となって来ている徳川家康を意識した策だとされています。 その後徳川幕府となり、小田原城は大久保氏や稲葉氏といった徳川家にとって重要な家臣が収めたこともあって、現在も、当時を彷彿させる絢爛優雅な姿を見せているのです。 何も決められないと揶揄された北条氏でしたが、今も多くの遺構が残されて、天守閣には多くの観光客が溢れ、この街から箱根駅伝を見守る小田原城を残してくれた功績は大きいのです。 そんなことを考えながら、新宿に戻りました。