表現の自由は誰のもの?

2015年3月24日
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我が家では、『つくし』を食べます。


つくしは、『土筆』と書かれるように、土から出た筆のように見えますが、正しくは、すぎなが春になって胞子茎を出して胞子を放出したもので、袴と言われる茶色の輪のような葉が、茎を取り巻いているものをさします。食べるときは、この袴を取り除く必要があります。

毎年この時期になると、周辺の人があまり立ちいらない土のある場所には、つくしの姿を見ることができます。

空き地や土手、フェンス越しの雑草が生い茂っているような場所で見かけることが多いです。

天ぷら、佃煮、茶碗蒸しなどいろいろな食べ方があるようですが、我が家では、卵とじにします。

つくしの姿が見えなくなると、春の深まりを感じるのです。

不思議なことに、前年たくさん採ったと思った場所でも、また翌年つくしの姿が見られます。写真2 H27.03.16

世の中には、良い意味でも悪い意味でも、毎年同じことが繰り返されることがあります。


守るべきものは守り、変えるべきものは変えることが重要です。

先日ある新聞に、安倍晋三内閣総理大臣が、「首相にも憲法で表現の自由が保障されている」と述べられたことが書かれておりました。

議論のきっかけは、昨年の選挙期間中、首相があるテレビ番組で、アベノミクスに批判的な街頭インタビューばかり出しておかしいんじゃないかと述べた生放送での発言が、その後のテレビ局に、放送の萎縮を齎したのではないかの批判に対してなされた答えがこれでした。

昨年、安倍晋三氏が生出演されて発言した場面は、私も見ていました。そのときは、『一国の総理大臣が、子どもみたいなこと言うな』くらいしか感じませんでした。しかし、このときの正当性に関して、首相は憲法で守られているかに言われたことには、違和感を持ちます。

憲法は、権力者を縛る規範です。権力を持った者によって、国民の権利が侵されたり、個人の尊厳が脅かされることを許さないために憲法があるのです。
あれは、安倍晋三氏が個人として権利を主張した場面ではありません。だいいち安倍晋三氏も自由民主党も、現憲法は改正すべきとの立場だったのでは?

やはり表現の自由を守り続けなければならない、変えてはならないと言うことが、身を持って実感されたと言うことでしょうか。

国民は、表現の自由が侵されるような場面に遭遇したら、つくしのように、繰り返し毎年毎年徹底的に主張し続けるでしょう。


私は、今年も同じ場所に生えたつくしを見て、雑草の強さを感じるとともに、踏まれても諦めず、また同じ訴えを続ける意義を思ったのでした。