3月10日と言えば何を思い浮かべますか?と問われたら。 「えっ。3月11日じゃないの?」。この 日を前にして、あるニュース配信社が行ったアンケートでは、知っている、知らないが拮抗したと出ていました。 昭和20年3月10日は、『東京大空襲』があった日です。 今年で70年となり、都内の慰霊堂で行われた法要には、安倍晋三内閣総理大臣も、歴代首相では初めて出席したそうです。 太平洋戦争も末期の昭和20年3月10日未明、米軍の爆撃機B29が大群をなして東京下町に焼夷弾を投下、約10万人が一夜にして亡くなった空襲がこれです。 10万人と言う数字は、私が住む自治体の総人口より多いです。日本の現在のスポーツ施設スタジアムで、一挙に10万人を収容できる場所はあったでしょうか? 今日は、数字について考えたいと思います。数字から何が見えるかということです。 先の大戦では、230万人の軍人軍属が亡くなり、民間人の犠牲者数は約80万人と言われます。 軍人軍属の戦死者の半数以上3分の2程が、赤紙で招集されたにわか兵となった方々でした。 戦死者の6割以上は戦病死、特に餓死だったとされます。菅原文太さんの遺言ではありませんが、国民を戦争に巻き込み、飢えさせることが行われていたのです。 終戦を挟んだ昭和20年1月から12月までの当時の人口は7千万人くらいですが、男女別平均寿命を調べると❗️ショックです。 1955年に刊行された『人口問題研究第60号』によれば、男子23.9年、女子37.5年となっています。あの当時、無念を強いられた方々からすると、なんと日本人の寿命は伸びたことだろうと思われるでしょう。 一夜にして、あっと言う間もなく、忽然と10万人がいなくなる事実。 高齢化社会ではなく、ーー少子ではあるでしょうが、ーー長くは生きられない社会が続いたのです。 現在の名古屋市の人口が230万人くらいですから、この半数が餓死する状況は、想像できるでしょうか? 今私たちがあるのは、日本国憲法のおかげであり、これを不断の努力で護ってきた国民の英知あってこその平和です。 それは、あの暗黒の時代に根こそぎ動員され、また、何も知らされず、普通の暮らしをしていたのに、突然前途を絶たれた幾数もの尊い犠牲があったからです。 東京で生まれ育ち、子どもを育て、やがてシニアになる私は、3月10日に改めて平和の尊さ、有り難さを実感せざるを得ませんでした。 過半数どころか絶対的安定多数を、国民は政府与党に与え、平和を託しました。 3月10日を知らない人が過半数と言う現実とのギャップを危惧するのは私だけでしょうか?