真田幸村の正室の父、大谷吉継をもっと知りたい!

2016年8月26日
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NHK大河ドラマ『真田丸』は、引き続き高視聴率を維持しているようです。時代は太閤秀吉が没し、いよいよ関ヶ原となるところです。大河ドラマの視聴者は男性、特に年配層が多いとは昔から言われておりました。

 

特に軍記物、戦国物が好まれる傾向があっとはいえ、また、戦国最後の最強のツワモノと評された人気の真田幸村を描いたドラマであることを割り引いても、なかなかの人気だと思います。その理由のひとつに、これまで知られていなかった人物や、歴史の過程でスラっと通過されてきた人物が、その人物を視点に、ひととおり描かれていることが理由になっているように思います。

 

信長秀吉家康の時代がテーマだとすると、武田勝頼、北条氏政、豊臣秀次あたりは、これまでもサラッと登場してすぐに消えました。真田丸では、この人たちそれぞれの視点から、その時の主人公として描かれた機会がありました。

 

それのみに留まらず、真田丸では、ドラマの進行上必要だったとはいえ、これまでほとんど取り上げられることはなかった春日昌元や木曽義昌らにスポットを当てた場面があり、歴史好きな私も、引き込まれた次第です。武田信玄を支える四天王と称された高坂弾正こと春日虎綱を父にもつ春日昌元、武田勝頼の妹を妻にした木曽義昌、この両名の立場、生き様は、真田幸村の父真田昌幸を描くとき、対比されました。

 

あの当時、いかに生きていくか、真田昌幸って凄い人とわかる脚本になっていました。 さて、今『真田丸』で、注目されているのは、大谷刑部こと大谷吉継でしょう。主人公幸村こと真田信繁の正室が、大谷吉継の子だったこともありますが、片岡愛之助さんの演技が光って、このところ毎回登場し、大谷吉継の最後はどのように描かれるのか、いよいよ関ヶ原間近、高まりを抑えられません。 関ヶ原の戦いは、大河ドラマでなくても、しばしば描かれます。

 

大谷吉継と言えば関ヶ原と思われるくらい印象が強いですね。白き頭巾を纏い、西軍の武将中ただひとり戦場で自害した人物であり、義の人として知られています。これまで大谷吉継を主人公、テーマにした小説歴史物はいくつもありました。南原幹雄氏の『名将大谷刑部』、冨樫倫太郎氏の『白頭の人』等最近特に多いと感じます。

 

真田丸では、真田信繁、そして石田三成との関係で、かなり突っ込んだ、しかし三谷幸喜氏によるあっと言わせられる、奇想天外な描かれ方が期待されますね。 大谷吉継は、生まれは諸説ありますが、母親が太閤秀吉の正室寧々に使えていた関係で、秀吉の小姓となり、徐々に認められて能力を発揮、秀吉の天下統一の前に、既に越前敦賀2万石を与えられ、後に5万石以上の石高となり、奉行軍監に類する身分を得ました。

 

現在敦賀市のイメージキャラクターは、白頭巾の大谷吉継を模したヨッシーくんだそうです。豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の力を認めていて、関ヶ原の直前まで、家康の信任が厚かったことが知られています。関ヶ原の戦いのきっかけを作ったとされる上杉討伐、徳川家康が怒り狂った伝えられる『直江状』、この中にも、家康が、当時大谷吉継を信頼して任せていたことがわかります。

 

また、先日放映された真田丸でも、家康の屋敷に夜討ちをかけようとする石田三成を諌め、自ら徳川屋敷に赴く姿がありました。それがなぜ西軍に? 大谷吉継が義に厚い武将であることは、大方の見方です。石田三成とは刎頸の友であり、戦国時代には珍しい親友関係が構築されていました。それは大谷吉継が、石田三成と同じ近江国の出が契機とも、年齢が近いからとも、また秀吉が、両人の能力を認めて『計数の才』に長けた奉行として、九州征討、小田原攻め、文禄・慶長の役、そして太閤検地でも、ともに仕事をさせたことなどが理由と言われております。

 

大谷吉継は、石田三成が心を許せる、話を聞く数少ない人物であり、それだからこそ身を呈して三成の暴挙を宥めたものの、『二度目』は聞き入れない親友に殉じたのでした。 大谷吉継は、癩病を患っていたと言われます。それが例の白頭巾の伝説となったようです。目が見えにくい状態になっていたことは事実とされますが、白頭巾は、後の世の人たちが、義に殉じた大谷吉継を憐れみ、惜しんで語り継いだのではないでしょうか。

 

石田三成との逸話もあります。あるとき太閤秀吉の茶会で、配下の者が、ひとりづつ茶碗を回し飲みすることになりました。当時大谷吉継は、癩病であって、これは感染すると信じられていたので、誰も大谷吉継が口をつけた茶碗に口をつけません。そのとき石田三成が、これを取って飲み干し、しかも美味しかったとしてその茶碗におかわりを求めたと言うのです。

 

さらに話には尾ひれが付きます。このとき茶碗に、大谷吉継が顔を隠していた頭巾の下から、膿がポトリと落ちた、その場がし~んとしたとき、石田三成がこれをひったくって飲み干しました。これに大谷吉継はいたく感動して、将来何があっても石田三成の義に殉じる覚悟を持ったと言うものであります。

 

関ヶ原の前哨戦となった上杉討伐に参戦するため、大谷吉継は領国の敦賀をたって近江の国佐和山城を訪ね、石田三成に徳川家康との仲直りを持ちかけました。ところが三成は、大谷吉継に対し、徳川家康を討つと意思を告げたのです。大谷吉継は、無謀であり、三成側に全く勝ち目がないことを3回に渡って解きました。

しかし、勝ち負けに関係なく、立ち上がらなければならないと決めた石田三成の熱意に打たれ、友情に報いる覚悟をしたとされます。ですから徳川家康も、まさか大谷吉継が西軍に付いたことは驚愕したと伝えらられているのです。大谷吉継は、負けると分かった戦に、友情を返す場としたのです。

関ヶ原で、本気で戦った西軍は、石田三成を別とすれば、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継くらいとされます。『総大将』毛利輝元は大阪城にあり、島津義弘は、三成家臣の無礼?に熱り立つて戦闘に加わらず、後の世に『捨て奸』と言うの戦法により多くの犠牲を出しながらも戦場を脱出しました。

 

それ以外の諸侯は、日和見で、小早川秀秋ほどではないにしても、天下分け目の関ヶ原で真剣に戦ったとは言えません。そんな中で、大谷吉継の活躍、大谷軍の戦闘は、凄まじいものがありました。もともと石田三成には勝ち目はないと判断していた上に、小早川秀秋の裏切りまで、予想していたとも思われるふしがあるのです。

これらを知りながら、一死を引き受けたのです。 大谷吉継は、石田三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの諸隊をまとめて関ヶ原の西南に位置する山の中に布陣しました。これは松尾山に1万5.000人の兵を率いて布陣する小早川秀秋に、睨みを効かせる意図があったと見るべきでしょう。そして大谷吉継は、東軍の藤堂高虎、京極高知の軍と戦い、奮戦します。

すると、かねて手配とおり小早川秀秋が東軍に寝返り、いっせいに大谷軍を襲います。それだけではありめせん。三成により付けられた脇坂安治ら4隊まで、大谷軍を攻めてきたのです。これではひとたまりもありません。

大谷吉継は、自害の道を選択しました。

ただし、癩病を患うその首を敵方に渡すな!と家来に厳命して…。 大谷吉継の最後の場面は、関ヶ原を描いた映画等ではよく現れます。『三成…』と呼ぶことが多いですね。実際は、辞世の句と、小早川秀秋を恨んだ言葉が残されております。切腹にあたり、小早川秀秋の陣を睨みつけ、「人面獣心なり。3年のうちに祟りをなさん」と叫んだと言われます。

 

そして小早川秀秋、関ヶ原の後、体調優れず、その2年後に若くして死亡しました。一節によると、大谷吉継の亡霊に悩まされて狂い死したとも。 「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」まだ30代の惜しまれる生涯でした。大谷吉継自身は、すべてをわかった上で、友情に殉じたのです。

 

あるいは、三成を止めれらなかった自責の念からとった行動かもしれません。大谷吉継からすると、日和見や裏切りは最も忌むべき事柄でしょう。

敦賀市のヨッシーくん、柔和な表情で、やがて東京、かつての東軍の本拠地江戸と繋がる北陸新幹線を、待っているようです。